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プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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たぬきの えり巻

エッセー1503 
 3月10日父の墓参り。
東京都慰霊堂のさくら


太平洋戦争が終って、70年。その間に、昭和の時代も終
わった。
しかし、こころにある昭和は終わってはいない。
 
昭和ひと桁世代の私も、そのひとりです。
 
もう、何十年も前のある日、自覚しなかった子供のころ自分
の国には、いったい何があったのだろうと思う様になった。
 
生まれた年に満州事変が始まった。
 
それから1945(昭和20)年の終戦まで、私の14年間は、
日本の戦争への準備と、ある意味貴重な戦争体験だった。
 
1歳(1932年)満州国建国宣言
2歳 (1933年) 24対1で、日本軍の満州撤退を勧告されて
日本は国際連盟を脱退
3歳 (1934年) 満州国帝政実施―執政博儀が皇帝になる
        ワシントン条約の破棄通告-国際的孤立と侵
略戦争の道へ
4歳 (1935年) 美濃部達吉博士の『天皇機関説』を参議院で
攻撃(著書は発禁)
          高橋是清蔵相、軍事予算で陸軍と対立
         (当時の平均寿命―男44.8歳女46.5歳)
5歳 (1936年) ロンドン軍縮会議脱退を通告
            二・二六事件
            国号を「大日本帝国」に統一
        日独防共協定ベルリンで調印
6歳 (1937年) 盧溝橋事件(日中戦争始まる)
        日独伊防共協定成立
(以上『自分史年表』藤田敬治監修 出窓社2005年版より抜粋。一部塩入が加筆)
 
1939(昭和14)年9月 第2次世界大戦勃発。―ドイツ軍
            がポーランドに侵攻
1941(昭和16)年12月8日 太平洋戦争が始まった。
小学5年、10歳だった。
 
 
6歳の小学校入学までに、自分の国では、なにが起きてい
たのか。今、箇条書きにしてみて、明らかに日本は、戦争
の準備をしていた。個人に例えれば、野心をもった。
 
私にとっては自覚のない子供時代でも、社会は動いている。
 
戦争に関する書物を読めば、それは日本だけではないこと。
欧米列強諸国は早くから侵略の事実があること。日本は、
それに追いつけ追い越せの意図があったこと。などの知識
は得られる。
 
だから、戦争の空襲で父が死に、兄が戦死するのは当然と
納得できるか。という思いは、今もあります。
 
ただ、私にとって、その時代に生まれたのは必然だと考え
ています。
 
戦争が始まるまで、浅草で酒屋が家業の我が家には、静かな
時間が流れていた。
我が家というより、私には、というべきかもしれない。両親
は、戦時へ向かうこの国で、家業と8人の子供や家業のため
に働いてくれている人たちを守るのに、懸命であっただろう。
 
1階は、ほとんどが店と台所、風呂場、食事用の6畳の座敷
なので、小学校から帰ると、2階に上がる。67歳になる母
の母なるばあちゃんが夕陽のさし込む窓際で、背中を丸めて
足袋のつくろいものをしている。
 
小学生は、さっそく国語の音読をする。当時は、今のように
音読が盛んだった。教室では、一人ずつ立って読む。間違え
たり、つかえたりすると、次の生徒がつづきを読む。
 
「たのしい潮干狩りで、足袋にはきかえて・・・・」という
ところで、私は、大きな声を張り上げて、
「あしぶくろにはきかえて・・・」と読んでいると、
「シイちゃん、それは、たび と読むんだよ」と、ばあちゃ
んが笑いながら声をかけてくれる。
「ふーん、そうなの、アハハ、はーい」
 
末子のためか、小学1年のころ酒類業招待旅行の熱海へ両親 
と行き、子供用の半纏(はんてん)を着せられ宴席に座ったり、
和菓子党の父ちゃんの使いで、電車通りに面したお菓子屋へ
日参したり。どこからお金というものが入ってくるのか、皆
目見当もつかないで暮らしていた。
 
ただ、今思うと不思議だが、子供のくせになにも欲しがらな
かった。
「仲良しの加代ちゃんが、あれを持っているから買って」と
か、「こんな着物を作って」とか。一度も言わなかった。
戦時中の「欲しがりません。勝つまでは」の標語を地でいっ
たような子だ。
 
確か小学4年生から、画の時間はクレヨンに替わって、絵の
具を使うようになっていた。
クラスの子は、今もある木製の絵具箱に道具を入れて提げて
きていた。私は、姉たちもそうしたからと、母ちゃんが布の
袋を縫ってくれて、それに絵筆や絵具を入れて持たされた。
 
自分だけ、かあちゃん手製の布袋でも平気だった。鈍感なの
かもしれない。
私は、何も言わずその絵筆の袋をぶら下げて学校に行った。
 
ダダをこねないのである。なぜかは分からない。
 
長じてから、「塩入さんは、甘えるのが下手だ」と知人に言わ
れた。たしかに「可愛いげはないよなあ」と密かに自分を笑う。
 
でも、下手とか上手とかいわれても、本人がそうしたいと思わ
ないのだから致し方ないと思っている。
 
子供のときから、物を欲しがったり、他人を羨ましがったりし
たことがない。あまり科学性がないが、B型血液だからかしら
などと考えてみる。
 
上の姉たちは、お花の稽古用にこんな花器を買って、とか、
父ちゃんに「着物を作って」とか、いろいろ要求していた。
 
昭和初期だったが、家業柄、電話もガス風呂もある家で、銭湯
に行ったことは、戦争が終るころ疎開先で経験するまで、一度
もなかった。
 
浅草の家は、南千住行市電の通りから一つ道を入ったところの
角店で、電車通りの向こう側には、大きな毛皮屋さんが並んで
いた。
なぜか、「その家の子とは遊ぶな」と両親から言われていた。
大人になってその理由がわかったが、同級生だったその家の子
と仲良しで、両親に内緒で遊びに行った。
 
鈍な子が、たった一度、親にねだったことがある。太平洋戦争
のはじまる2年くらい前、8歳ころだったと思う。
 
当時、たぬきやキツネの顔の付いた毛皮のえり巻があった。尻
尾もちゃんとついて、口がパカッと開いて、首に回した反対が
わの胴の真ん中あたりで止めるようになっている。
 
仲良しの毛皮屋の同級生の店に沢山並んでいた。とても温かく
て恰好いい。
 
私は、どうしても、このたぬきの顔のついた毛皮のえり巻が欲
しいと思った。
 
冬のある日、そっと母ちゃんに「たぬきのえり巻買って」と言
った。
母ちゃんは、なにも言わず、私の顔をじっと見ていた。
 
翌朝、目が覚めると、枕元に黒茶色の「たぬきのえり巻」があっ
た。黒い目が二つ、こちらを見ていた。
 
遊んじゃいけない、という子と遊んでいる私の心のうちを母ちゃ
んは推しはかったのだろうか。
それとも、一度も「なにかを買ってくれ」と言ったことのない子
の言葉だからきいてくれたのか。いまだに、わからない。
 
そこで、ポツンと記憶が切れている。
 
でも、太平洋戦争が始まる2年前であることと、枕元においてく
れた「たぬきのえり巻」や両親の愛情は、鮮明に覚えている。
 
そして、戦争があらゆる環境を一変させた。
 
70年の時間も過ぎた。
 
子供時代は、子供本人にはつくれない。親や身近な大人、大事な
のは、国が自国の大切な子供として、その時代を育むこと。
自意識をもつ成長までの時間は、子供にとって未来をつくる宝物
のようなときではないだろうか。
 
子供は国の未来を抱いて生まれてきている。と、私は思うのです。
                        (2015/03/23)
 
 
 
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