プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

全記事表示リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

姉母ちゃん(ねえかあちゃん)

エッセー称wを想う戴きもの
 昭和を想う戴きもの

 
私の母ちゃんは、明治26(1893)年に生まれ、21歳で
父ちゃんと結婚。明治、大正、昭和を生きて、太平洋戦争が
終って5年目に57歳で天へ還った。
 
下町の私の育った地域では、両親を父ちゃん・母ちゃんとい
う。父さん、母さん お父様、お母様 パパ・ママとは言わ
なかった。
 
パパ・ママといえば、昭和9(1934)年頃、パパ・ママ
という呼び方が国として問題になったことがあった。
日本が国際連盟を脱退(1933年) 、そろそろ侵略戦争への影
が濃くなりつつある頃である。
 
現東京都台東区浅草で、酒店のおかみとして働き、10人
の子供を産み、2人が幼少で死んで、8人の子を育てた。
男女4人ずつ、8人の内の末子が、私であります。
 
近所の人から「奥さん」と言われると、「あたしは、酒屋の
おかみだよ。奥さんなんていわないで」と、本気で怒った。
 
海山に限りはあるが、天空には切れ目も終わりもないように、
限りない愛情を持った人だった。
 
私の幼少、昭和のひと桁ころは、町に、お乞食(こじき)さん
の姿があった。
 
三番目の姉が「あの角にお乞食さんがいたよ」と母ちゃんに
つげると、「夕方になったら連れておいで」といわれ、姉が
連れてくると、たらいにお湯をたっぷり入れて体を洗ってあ
げ、兄ちゃんたちの有り合わせの着物を着せ、ご飯を食べて
もらい、多少のお金とおむすびを持たせて送り出したという。
 
「さすがに、家のお風呂は使わなかった」と姉は笑う。
 
父ちゃんは、「また、母ちゃんの道楽がはじまった」といって
苦笑いをしていたという。
 
その父ちゃんは、厳密な人で、いわゆる箸の上げ下ろしにも
厳しかった。
ひげそりには、近所の中国人の床屋さんが、お気に入りだっ
た。仕事が丁寧で、最後に耳掃除もしてくれると、よく聞か
された。
 
印象に残っているのは、お医者さん、歯医者さん、床屋さん
髪結いさんなど、自分や家人が体に関してお世話になるとこ
ろへは、盆・暮のお礼を届けていた。
 
そのころを、ぼうっと過ごしていた私には、父ちゃんの考え
を聞くこともなく、いっしょに暮らす中で、ただ、感じてい
ただけだった。単にお世話になるからという以外に、父独自
の思い方があったのではないかとも、思えた。
 
そして、いつか、長じて、姉も、自分も父ちゃんの真似事を
しているのに気がついて,「変だね」と笑った。
 
当時の酒屋は、びん詰のお酒や醤油、袋入りの塩も容器入り
の味噌もなかった。すべて量り売りで、店の土間には、味噌
醤油の樽、松本家具のような、大きくがっしりした塩用の木
箱などが所狭しと置いてあった。
 
当時、「塩」は許可のある店でしか販売できなかった。店のカ
ドには、ブル―地に白い文字で「塩」と書いた金属の看板が
かかっていた。
 
もちろん、日本酒も各地から、菰(こも)かぶりのまま届いて、
吸い口という酒道具を樽の下側につけて、升で1合ずつ計っ
て売る。
酒樽の棚には、あでやかなボタンの花を描いたものや、正宗
の正の一字を墨で書いた菰樽(こもだる)が7~8個並んで、
にぎやかに店を彩っていた。
見上げると、一番上の棚には、朱色の、ご祝儀に贈る角樽
(つのだる)が、ずらりと並ぶ。
 
子供ごころに、毎日目にする、そんな風景が好きだった。
 
店の並びには、酒道具専門の店もあり、店の前の大通り、向
う側には、惣菜の店、電車通りに面した通りには、八百屋、
乾物屋、和菓子屋、佃煮屋など、すべてそれぞれの店で、日
常品を買いそろえていた。
 
店は、小売より、近くの日本堤を行った所、吉原の各店が得
意先だった。日本酒を1合ビンに詰め、大きな蒸し器で蒸し
たあと、1本ずつ王冠用の機械で口を締めて自家製ラベルを
貼り、卸していた。
 
毎日、数百本手づくり製造をするため、店は一年中多忙を極
めた。小僧さんも数人住み込みでいたが、兄ちゃんたちは、
みんな家業を手伝った。そのなかで、終戦の年、3番目の兄
ちゃんは、マーシャル群島(現マーシャル諸島)カロリン島で
玉砕した。
 
その兄ちゃんが出征するとき、母ちゃんは、なかなか家から
出て来ないで、兄ちゃんが歩きだしてから、飛び出してきて、
「帰ってくるんだよ」とだけ言った。190㎝近い長身の
イケメンで、忙しい中、肩車で遊んでくれた。やさしかった。  
 
母ちゃんは、朝早くから、お酒を蒸す作業から、14~5人
の食事作りまで一人で受け持った。当時で言う、女中さんは
いなかった。
 
小学校の遠足のときは、起きると、弁当用の海苔巻ができあ
がっていたり、夏、近所の毘沙門天の縁日に行く時、金魚の
柄の絽(ろ)の着物がいつの間にか出来上がっていたり。
 
母ちゃん無くして店も家も成り立たなかった。子供ごころに、
母ちゃんはいつ寝るのかなと思ったものです。
 
その母ちゃんと,こころ映えがそっくりなのが、三番目の
姉である。
顔は、私とちがって、ハンサムだった父ちゃん似で美人系。
 
商人の娘は、やはり商売好き。
新聞社勤めだった義兄亡き後も、洋裁店や毛糸店の後、呉服
店を今もつづけている。男の子を3人育てた。
 
人なつっこく、だれでも受け入れる。いやな顔をみせない。
さすがに年で、「あまり長居をされると、かまわず、横にな
っちゃうのよ」
と90歳を前にして、ちょろっと舌を出す。
 
いつか、私はこの姉に母ちゃんを重ねるようになった。
大学受験を前にして、母を失い、情緒不安定な私の支えに
なってくれた。
 
多くを説明しなくても、みんな、解ってくれた。
 
神様は、そのために、人間の子供を定員1名にはしなかっ
たのかもしれない。と感謝している。
 
つい最近、この姉を「姉母ちゃん」(ねえかあちゃん)と勝手
に名づけて、こころで呼んでいる。
 
恥ずかしいので、本人には言っていない。
                     (2014/09/14)
 
 
スポンサーサイト

COMMENT

EDIT COMMENT

非公開コメント

ブログ村ランキング
応援のクリックをお願いします
著書の紹介
検索フォーム
アクセスカウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。