プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

全記事表示リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ありがたい

エッセー 
                     

コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。
この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「お礼をいうだけの値打ちがある」と
いう意味で使われているね。
しかし、この言葉のもと(。。)の意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。
「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持ちになる。
それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。

ところで、広い世の中を見渡して、その上で現在の君をふりかえって見たら、君の現在は、本当に言葉どおり「ありがたい」ことではないだろうか。

この一文は、吉野源三郎著 『君たちはどう生きるか』
岩波文庫 1982年版四 貧しき友--人間であるからには
(おじさんのノート)136頁からの抜粋である。

主人公は15歳、成績優秀な中学2年生で、愛称コペル君。
本名本田潤一。中流の比較的裕福な家庭に母と暮らす。
銀行の重役の父は2年前に死亡。ばあやと女中が一人。

近所に住む母の弟の叔父さん(法学士)のアドバイスを受けながら、太平洋戦争の始まる直前の時代を背景に、成長してゆく姿が描かれている。

15歳の少年コぺル君の周りには、実業家の父をもつ裕福な子、予備陸軍大佐の子、貧乏な豆腐屋の子などの友達がいる。
学校では、上級生からのいじめにも遭う。

コぺル君は、お母さんから、自分が赤ん坊の時、乳が足りなくて、毎日ラクトーゲンを飲んで育ったと聞く。ラクトーゲンはオーストラリア産で、オーストラリアの牛も僕のお母さんかなと思う。そして、粉ミルクが日本にくるまで、牛の世話をする人、乳を絞る人、工場でミルクにする人など多くの人が関わる。

そのミルクが日本に来てから、汽船から荷を下ろす人、薬屋まで運ぶ人、そのほか、あらゆる人まで入れると何千人、何万人か知れない。たくさんの人が自分とつながっているんだと思う。
さらに、教室で先生の洋服や靴を丁寧に細かく考えてみると、やっぱり同じだと発見。先生の洋服はオーストラリアの羊からはじまっている、と考える。

だから、人間は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっている。彼はこれを「人間分子の関係、網目の法則」としました。と、叔父さんに報告する。

叔父さんは、その「人間分子の関係」というのは、学者たちが「生産関係」と呼んでいるものなんだよ。きみが誰にも教わらないでそれだけのことを発見したのは、立派なことなんだ。と。つづいて、経済学、社会学の必要性をやさしく話す。

「自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることができないでしまう。大きな真理はそういう人の眼には決してうつらないのだ」と、コペル君の叔父さんは、ノートに記す。

「また、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、けっして見落とさないようにしてゆきたまえ。
この点から見てゆくと、大きな顔をして自動車の中に反り返り、素晴らしい邸に住んでいる人々の中に、案外にも、まるで値打ちのない人間の多いことがわかるに違いない。
また、普通世間から見下されている人々の中に、どうして、頭をさげなければならない人の多いことにも、気がついて来るに違いない。」(140頁)

このように、15歳の少年が、世界の歴史のうごき、貧困、いじめ、友情などさまざまな問題に直面し、叔父さんのアドバイスに助けられながら、その疑問をといてゆく。少年少女の人生読本、倫理の書ともいえるものである。

私は、この『君たちはどう生きるか』をコぺル君と同じ15歳のとき、読んだ。
師と仰ぐ人に、いただいた。

そして、冒頭の「ありがたい」「ありがとう」という言葉の根源の意味を深く心に止めた。
本のタイトルも頭の隅に定住して、それは、いつか『君はどう生きるか』に代わっていた。

この書は、1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にかけて新潮社から刊行された『日本少国民文庫』全16巻の最期の巻に収められている。
山本有三編纂で第1回配本は第12巻の山本有三著『心に太陽をもて』だった。
 
1935年は、満州事変のあと、日本の軍部がアジア大陸に侵攻を開始してから4年、日本の軍国主義が強まりつつある時期で、第二次世界大戦への危機がせまっていた。ヒットラーやムッソリーニが政権を取り、時代はファシズム台頭へと進んでいた。

「自由主義の立場にいた山本有三は、そのような中で少年少女に訴える余地はまだ残っているし、悪い時勢の影響から次代を担う少年少女を守りたい、
偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかして伝えておきたいと思った」
 
[荒れ狂うファシズムのもとで、先生はヒューマニズムの精神を守らねばならないと考え、その希望を次の時代にかけたのでした」

『日本小国民文庫』が刊行され『君たちはどう生きるか』が書かれたのは、そういう時代、そういう状況の中でした。と、吉野源三郎氏は岩波文庫1998年版の『君たちはどう生きるか』の中で記している。
その巻は山本有三が執筆の予定だったが、病のため、吉野氏が執筆したという。

刊行されて、8年後に日本は終戦を迎え、その1年後の1946年に初めて私はこの本を読んだ。高校生だった。終戦の年にマーシャル諸島での玉砕で兄を失い、東京の空襲で父が浅草寺で死亡。心の中が空洞のときだった。

そして、67年後の2013年、よく通う新宿の古書店で、この本と再会した。
10代の感動が蘇った。さらに、そのころには読みこめなかった深い意味が、身にしみた。人が残していくものの価値を改めて考えた。

素晴らしい叔父さんの教えに導かれ、コぺル君はその後、どんな人生を生きたのだろう。と想像しながら、名著を残された、吉野源三郎氏(1981年没)に、

「お書きになった内容を、未熟な咀嚼(そしゃく)ではありますが、15歳のときから忘れずにいる、昔の少女がここにも一人おります。ありがたいことでございます」と、心であいさつをした。

*『君たちはどう生きるか』
1937年8月新潮社刊 『日本小国民文庫』山本有三編纂 
全16巻の最終巻 吉野源三郎著 
1982年岩波文庫で刊行
                            (2013/07/18)
スポンサーサイト

COMMENT

EDIT COMMENT

非公開コメント

ブログ村ランキング
応援のクリックをお願いします
著書の紹介
検索フォーム
アクセスカウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。