プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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少し余分に

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酒屋のおやじのわたしの父ちゃんは、62歳で、1945(昭和20)年3月10日の大空襲で死んだ。私とは、14歳まで人生を共にしてくれた。

東京市浅草区吉野町1-5-1番地
店は南千住行の市電が通る道を一本入った、角にあった。

店の奥に6畳の座敷があり、長火鉢と卓が置かれ、それが、父ちゃんの定位置。缶詰類などを販売する、今も健在の国分商店の当時の社長さんが来ると、長火鉢を挟んで、お酒を飲みながら談合していた。

酒屋のくせに、和菓子が好きで電車通りにある、光琳堂という和菓子屋へ、使いに行くのが学校から帰ってのわたしの日課だった。お大福、きみしぐれ、くず桜など、指名の菓子を6~7個。木の皮に包んで掛け紙をしてくれる。

ビニールや手提げの紙袋などの無い時代。風呂敷を持たされて、菓子屋のおかみさんが包んでくれたのを大切に両手で持ち帰る。ころぶと、菓子がつぶれる。何度か失敗して、泣きながら帰り、お金をもらって、もう一度買いに行った。
わたしが7歳くらいのことです。

そのころの下町は、まさに、向う三軒両隣。ご近所付き合いが親密だった。今夜のおかずのハスの煮物を余計につくったから、と言って丼に一杯、となりのおばさんが割烹着の前の部分を風呂敷代わりに、丼にかぶせてとどけてくれる。その場で、いただいた中身を移して、器のお返しに半紙を添えて。などは日常のこと。

父ちゃんは、散髪は、日本堤(当時の吉原へ通じる町)にある中国の人の店へ行っていた。技術がうまいのと、最後に耳掃除をとても気持ちよくやってくれるから、というのを記憶している。

そして、盆暮れには寸志を包んで行った。
父ちゃんは、「普段、身体をいじってくれる人には、ちゃんとお礼をしなければ」という。

家族がかかるお医者さん、歯医者さん、母ちゃんが行く髪結いさんなどに、その時節にはお礼をかかさなかった。それ以上深い考えは、子供なので、わからない。いまでもわかりません。でも、父ちゃんの気持ちのようなものは、わかる。

その金封をつくるとき、「人間はどうしても欲深で、ちょっと少な目にしたくなる。それではいけない。自分が考えた額より、少し余計にしなさい」そのほうが、相手も自分も気持ちがいい、という。

なぜか、今、わたしも、ささやかながら、そうしている。
                               (2013・2・18)

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