プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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きもの

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日常着からは遠ざかってしまったが、きものは、日本人なら魅かれない人はいないでしょう。と、勝手に思っている。

浅草で酒屋のおかみだった、母ちゃんは、57歳で死ぬまで、きものだった。
絣や銘仙のきものの上に白い割烹着を着けて、朝から晩までくるくる働いていた。

そんな姿を見て育ったせいか、夏は金魚の柄の絽のきもの、冬は牡丹柄でチリメンの被布(ひふ)を着て、ごきげんだった幼児のころが残像としてある。

戦争が終わって(日清戦争ではありません)、20年もたったある日、仕事で電通通りを歩いていたら、たっぷり大きなガラス戸に、「こうげい」 と書かれた店があった。
なんとも雰囲気のいい店だった。

呉服屋さんだが、デパートのような無駄が全くない、選りすぐりのいい物が並んでいる。目をみはった。1点1点に、釘付けになった。 

後で知ったが、品物は、白洲正子さんが自ら日本全国の染めや織元に足を運び、自身の目で選んだものだった。

手始めに、鳥取の弓ヶ浜の絣と赤い織り帯をお願いした。ご縁で、鎌倉から通っている、スタッフの三船さんという女性と親しくなった。
彼女の目は確かで、 仕事で、電通通りを歩くときは、「こうげい」に立ち寄り、きものをみながら、5~6分、三船さんとの束の間のおしゃべりが楽しかった。

着物姿の美しい人が歩いていると、着こなしの様子を観察しながら、後をつけることもあった。

この店が白洲正子さんの店だとわかったのは、店に出入りして2~3年経ってからだった。店主と近しい、小林秀雄、川上徹太郎、青山二郎は書籍で知っていたが、白洲正子さんは、雑誌の「作家訪問」の記事で知るくらいだった。

公私ともに、インターネットをもたない時代で、仲良しの三船さんも一言も、そのことは話さなかった。
  
ある日、「白洲が本を差し上げたい、といっております」と三船さんから言われた。
奥の事務所に白洲さんがいて、著書の『栂尾高山寺 明恵上人』(講談社)をサインしてくださった。

1967(昭和42)年の冬だったと思う。

細面の、凛と、美しいお顔の持ち主は、あまり笑いもしないで、じっと私をみて、「いつもありがとうございます」と言われた。精神を鍛え、知を磨き、確かなよりどころを備えた素敵な女性だと思った。
和服を自分のかたちに着て、染色家古沢万千子さんの、蝶を格子にはめ込み、藍とグレイで染めあげた紬地の羽織を着こなしていたのが印象的だった。

『栂尾高山寺 明恵上人』 出版の3年後、1970(昭和45)年に白洲さんは 「こうげい」 を人に譲られた。

表向きは、今のように世界中があわただしくはなかった、遠いむかし、銀座、旧電通通りの風景のひとこま、です。                     (2013・2・18)

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