プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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ふりかえるー59回

 エッセー1707
散歩の途中で 2017年5月
 
 私は、14歳まで、東京市浅草区にある酒屋の娘でした。
兄4人、姉3人、8人兄弟の末っ子です。
 
日本堤(にほんづつみ)を越えた吉原(よしわら)遊郭街(ゆうかくがい)の各店へ、自前瓶詰の日本酒
を毎日配達する家業で、酒、味噌醤油、塩などの小売りも
行っていました。

南千住行き市電が走る、停留所から二つ目の角店(かどみ
せ)で、大晦日には、店の軒の左右に大提灯が二つ下がり、
赤々とともる灯が今も心に、滲んでいます。
 
 昭和12年、私が6歳ころの戦前の町の時間は、ゆっくり、
流れていました。
 
馬が荷物を引いて店の前をパカパカと歩き、落とし物をし
て行きます。早朝の家々は、、豆腐や納豆をリヤカーにのせ
て、トーフーと笛を吹きながら通り過ぎるのを呼び止めて、
朝ご飯に間に合わせます。
 
浅草の浅草寺(せんそうじ)裏に大黒家(だいこくや)という天ぷら屋があり、今も健在
です。5~6歳のころ、夕方になって気の向いた時、父は私
の手を引いて、大黒家で一杯やります。板わさに酢のモノと
日本酒。私は天丼。
 
 天丼は、ふたに、海老を全部移動させます。天つゆの浸み
たご飯が私の好物。お新香と澄まし汁と天つゆご飯。
 
 父は、黙って、最後に私がよけた海老の天ぷらや食べきれ
なかったご飯を食べてくれます。終わると、一息ついて、
父は、徳利や盃、皿などをサッサッときれいに並べます。

それからが、子どもの私には、大変です。
 私は、天丼の器と汁椀、箸置きと箸、すべて注文して運
ばれたときのようにきちんと並べます、
「ハイ、もう一度よく見て、きれいかな? じゃ、帰ろう」
と、手をにぎってくれる父。
 
店を出ると、歩きながら、自分が食べた後は、景色をきれ
いにしておくんだよ。一度ふりかえるんだよ。そうすると、
自分も店の人も気持ちがいいからね。と、いつも同じことを
繰り返す。
5~6歳の子供は「うん」とか「はい」というだけです。
 
 昭和20年3月10日、浅草の大空襲で父が逝って、72年と
いう時間が過ぎた今の私の中に「ふりかえる」というのは、
確認、チェック、見直し、謙虚、先を考えた安全性の追求な
ど、さまざまな表現と意味をもって定着しています。

 
バレリーナは、レッスンを1日休むと自分に分かり、2日
で周囲にわかり、3日で観客にわかる。という。

出版の世界では、最近は、デジタル化しているが、それで
も、書物にするまでは、編集者はあらゆるチェックを繰り返
します。そしてやっと1冊の本になる。

かつて、岩波書店の書物に誤字脱字はない。という時代が
ありました。書物をつくる人間なら、それがどれほど誇りで
あり、とりわけ日本語の場合、大変なことかわかるので、長
い語り草になっていました。
 
 女の化粧も日々、自分の確認、チェックであり、その顔も
「履歴書」になりつつある時代。 
 
月商が1億の会社も、1千万の会社も、フリーで100万の
芸人も基本は同じ。1点500円のイラストレーターも、自分
の作品や商品は、己を表すと思えば、どのような些細な点も
おろそかにはできない。必ず何度もチェックするという姿勢
をもつのは当たり前。
 
 そのような会社や個人や芸術家、アスリートたちが成功し
ているのではないか。

そして、成功したあとも日々振り返らないと、さらなる発
展は止まり、止まるだけではなく、立つ位置によっては社会
的、国家的損失までおこしてしまう。 
 
 その例が、福島原発による東北の方たちの被害であり、1
兆円負債のエアバック・タカタであり、東芝なのではないか。
 
個人でも組織でも、政党でも、振り返らない体質が日常に
なってしまったら危険だと大きな声を上げるのも、上げない
で、何十年もつつがなく過ごすのも、源は、それを構成して
いる、個々の人間の問題です。
 
 明治生まれの父は、「食後の景色をきれいに」ということ。
もう一つ、「食事中に首から上に手を触れないこと。とり
わけ、髪の毛に触れるな、と、やかましく言われました。髪
の毛は汚れのはげしい部分で、食事中に手を触れると無作法
になる。というのが父の言い分でした。

パブロフの犬のように、条件反射の訓練が功を奏し、後年、
私がちいさな会社を持って、他社のいろいろな役職の方との
食事の際のバイブルになりました。
 
終戦後5年、昭和25年に逝った母のことも、ちょっと。
 
やはり、私の5~6歳のころから、母の口ぐせは、「女の子
は、どのような場合でも、死んでも両膝をはなしてはいけな
い」でした。古いですね。
 
でも、道で落とし物をひろう時、女性は、両膝をつけてひ
ろうと、姿がきれいです。
 
5~6歳のころから、こんなことをやかましく、言い続けて
くれた、明治時代に生まれ、育った両親が、私は大好きです。
 
                              2017.07.11
 
 
      


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