プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

全記事表示リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

駅弁彩見28 大館駅 鶏めし

IMG_4070 (2)切り抜きV2
Scan0019切り抜き

JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。


大館駅鶏めし 

秋田県北部、大館市の玄関口大館駅は1899(明治
32)年開業。東北の駅百選の選定駅である。駅開
業と同時期に駅前の花岡旅館(花善)は駅弁当を
販売。1945(昭和20)年終戦時で物資が欠乏。賄い
食用に支給の砂糖、醤油、ゴボウ、米などの食材
をまとめて炊いたことで「鶏めし」の原型が誕生。
「鶏めし」だけの花善は、創業115年を迎えた
 
駅弁彩見28 大館駅 鶏めし 880円(税込)
 
大館市は、忠犬ハチ公のふるさと。その銅像は大館駅、渋
谷駅、東京大学内にも、ご主人の上野英三郎氏(当時、東
京大学農学部教授)とともに建っています。
 
大館には、また、各種の名産品があります。
ハチのような秋田犬(いぬ)、比内鶏、きりたんぽ、大館曲
げわっぱなどです。
 
大館の「鶏めし」を初めて現地取材したのは、1995年
『JTB大型時刻表12月号』。20年も前の、雪の大館
駅に降りました。
 
懸け紙と透明なふたをはずしたら、まず鶏めしをほうばっ
てみてください。
鶏ガラスープをベースに醤油、砂糖、家伝の調味料で炊き
上げた、この鶏めしの滋味が舌に残ります。
 
4.5cmの深さの容器に盛られたご飯は、たっぷりの量。取
材時と異なり、少食年代突入の私には、多すぎるほどです。
 
鶏肉は、「国産鶏」を使用。醤油、砂糖、酒、独特の調味料
で、ほどよい柔らかさを保つよう炊きます。鶏ガラスープ
で炊き上げた醤油めしと一体化した定評の「鶏めし」です。
 
さらに、白身魚のすり身の特製がんもや、サーモン入りか
まぼこ、しいたけ煮など、吟味されたおかず類が味を添え
ます。
特筆すべきは、20年前の取材時は800円でした。それ
から80円価格が上がっただけです。
 
うまい「鶏めし」一筋に、115年が経ちました。
 
 
売店:大館駅、秋田駅、東能代駅、新青森駅、青森駅、盛岡駅
仙台駅、大宮駅、東京駅・駅弁屋「祭り」
予約:取寄せ:予約―可
取り寄せー不可
花善:0186-43-0870
 
 
1
1 株式会社花善の社屋-昭和25年ころ

2 
2 大館駅車庫入りのD511ほか。大館駅には昔、回転台があった

3 
3 大館駅ホームのC6120

4 昔の掛け紙1 
4 花岡旅館時代の掛け紙-年代不詳

5昭5年頃(上等御弁当) 
5 昔の掛け紙―昭和5年ころ

6昭25-35年頃(鶏めし) 
6 昔の掛け紙―昭和25~35年ころ

7昭47-48年頃(鶏めし)縮小 (2) 
7 昔の掛け紙―昭和47~48年ころ

8ありがとうあけぼの掛け紙2014平成26年 
8 「寝台特急あけぼの」車内販売の掛け紙―平成26年


創業115年 大館駅・花善の歴史
黒字=駅  青字=花善
 
1899(明治32)年11月 官設鉄道の一般駅として北秋田郡釈迦内村
           に開業
            ――――――――――――大館駅開業
1899(明治32)年11月15日 大館駅開業に伴い、花岡旅館にて
弁当の構内販売を始める
             初代社長に花岡嘉一郎が就任
             ――――――――――――花善創業
1909(明治42)年5月  1903年に開業した専用鉄道を改修し、
           小坂線が小坂駅まで開業 
1909(明治42)年    2代目社長に花岡鐡蔵が就任
       10月  線路名称制定、奥羽本線の駅となる
1913(大正2)年     3代目社長に花岡久太郎が就任
1914(大正3)年7月  秋田鉄道線が扇田駅まで開業
1916(大正5)年1月  花岡線が開業
1934(昭和9)年6月  秋田鉄道線が国有化。国鉄花輪線となる
1935(昭和10)年7月  初代ハチ公像が駅前に建てられる。戦時
           中に金属供出された
1943(昭和18)年    4代目社長に花岡三郎が就任
1945(昭和20)年8月  終戦により、物資がなく賄い食として、
           砂糖、醤油、ゴボウ、米の支給があり、
           これらの食材をまとめて炊いたことから
           「鶏めし」の原型が生まれる
1946(昭和21)年    花岡商店として弁当部門を独立、現在
            の場所にて商いの拠点とする
1947(昭和22)年    大館市の要請により、秋田杉のおひつに
                              盛り風味をつけ、鶏肉をご飯の上にのせ、
                             ふり玉子をして、現在の「鶏めし」の形
となる
1950(昭和25)年    株式会社花善商店設立
1955(昭和30)年5月  火災により駅舎(国鉄、小坂鉄道)焼失
       12月  現在の鉄筋コンクリート2階建ての駅舎
            竣工
1955(昭和30)年    大館駅前地区の大火災により社屋が全焼。
                               現在の社屋を再建。同時に、食堂部門を設立
1964(昭和39)年    駅前に秋田犬群像が建てられる
1971(昭和46)年    「鶏樽めし」を販売
1976(昭和51)年    株式会社花善に名称変更
1985(昭和60)年4月  花岡線廃止
1986(昭和61)年11月  荷物の取扱いを廃止
1987(昭和62)年    忠犬ハチ公銅像再建
        4月  国鉄分割民営化により国鉄駅はJR
            東日本・JR貨物が継承
1989(平成元)年     構内にハチ公神社がつくられる
1990(平成2)年3月   コンテナ貨物の取扱い開始
1991(平成3)年    5代目社長に花岡ウタが就任
1994(平成6)年10月  小坂線の旅客営業を廃止
1999(平成11)年11月  100周年を記念、大館駅とともに「100
            周年フェスティバル」を行う
2002(平成14)年         東北の駅百選に選定される
2004(平成16)年    模範営業施設として、厚生労働大臣より
            表彰
2005(平成17)年11月  NREみちのくこけし亭(そば屋)が閉店
2007(平成19)年12月  発車メロディが県内初のご当地メロディ
            に変更
2007(平成19)年    6代目花岡多香子が社長に就任
2007(平成19)年    JR開業20周年及び秋田わか杉国体を
            記念し『曲げわっぱ「黒」鶏めし』を販
            売
2008(平成20)年3月   小坂線運転終了
2008(平成20)年    「マタギな鶏めし」を販売。同年の大館圏
            域地域産業祭商工展で「大館市物産協会
            会長賞」を受賞
2009(平成21)年4月   小坂線廃止に伴い、小坂線大館駅廃止
       10月   ハチ公神社リニューアル
2009(平成21)年     創業110周年を迎える
2010(平成22)年     7代目社長に榊 誠が社長に就任
2011(平成23)年6月~7月 福島第一原子力発電所事故のあとに関東
             地方および静岡県から搬入された放射性
             物質が検出された焼却灰が駅構内にコン
テナのまま長期間保管される。
2011(平成23)年3月    東日本大震災の余波を受ける。幸い社屋
             への直接的な被害は免れ2日後には弁当
             の製造を開始
2012(平成24)年      8代目社長に八木橋秀一が就任
2013(平成25)年8月    集中豪雨により大館駅が冠水。食堂が床上
             浸水した
2014(平成26)年4月    旧小坂製錬小坂線駅構内の敷地および
             レール跡の敷地などが大館市に無償譲
             渡される
2014(平成26)年     「寝台特急あけぼの」の廃線により、車
             内販売を復活。
             創業115周年を迎える
2015(平成27)年3月    現在に至る
―――――――――大館駅開業115年
――――――――――花善創業115年
 


スポンサーサイト

たぬきの えり巻

エッセー1503 
 3月10日父の墓参り。
東京都慰霊堂のさくら


太平洋戦争が終って、70年。その間に、昭和の時代も終
わった。
しかし、こころにある昭和は終わってはいない。
 
昭和ひと桁世代の私も、そのひとりです。
 
もう、何十年も前のある日、自覚しなかった子供のころ自分
の国には、いったい何があったのだろうと思う様になった。
 
生まれた年に満州事変が始まった。
 
それから1945(昭和20)年の終戦まで、私の14年間は、
日本の戦争への準備と、ある意味貴重な戦争体験だった。
 
1歳(1932年)満州国建国宣言
2歳 (1933年) 24対1で、日本軍の満州撤退を勧告されて
日本は国際連盟を脱退
3歳 (1934年) 満州国帝政実施―執政博儀が皇帝になる
        ワシントン条約の破棄通告-国際的孤立と侵
略戦争の道へ
4歳 (1935年) 美濃部達吉博士の『天皇機関説』を参議院で
攻撃(著書は発禁)
          高橋是清蔵相、軍事予算で陸軍と対立
         (当時の平均寿命―男44.8歳女46.5歳)
5歳 (1936年) ロンドン軍縮会議脱退を通告
            二・二六事件
            国号を「大日本帝国」に統一
        日独防共協定ベルリンで調印
6歳 (1937年) 盧溝橋事件(日中戦争始まる)
        日独伊防共協定成立
(以上『自分史年表』藤田敬治監修 出窓社2005年版より抜粋。一部塩入が加筆)
 
1939(昭和14)年9月 第2次世界大戦勃発。―ドイツ軍
            がポーランドに侵攻
1941(昭和16)年12月8日 太平洋戦争が始まった。
小学5年、10歳だった。
 
 
6歳の小学校入学までに、自分の国では、なにが起きてい
たのか。今、箇条書きにしてみて、明らかに日本は、戦争
の準備をしていた。個人に例えれば、野心をもった。
 
私にとっては自覚のない子供時代でも、社会は動いている。
 
戦争に関する書物を読めば、それは日本だけではないこと。
欧米列強諸国は早くから侵略の事実があること。日本は、
それに追いつけ追い越せの意図があったこと。などの知識
は得られる。
 
だから、戦争の空襲で父が死に、兄が戦死するのは当然と
納得できるか。という思いは、今もあります。
 
ただ、私にとって、その時代に生まれたのは必然だと考え
ています。
 
戦争が始まるまで、浅草で酒屋が家業の我が家には、静かな
時間が流れていた。
我が家というより、私には、というべきかもしれない。両親
は、戦時へ向かうこの国で、家業と8人の子供や家業のため
に働いてくれている人たちを守るのに、懸命であっただろう。
 
1階は、ほとんどが店と台所、風呂場、食事用の6畳の座敷
なので、小学校から帰ると、2階に上がる。67歳になる母
の母なるばあちゃんが夕陽のさし込む窓際で、背中を丸めて
足袋のつくろいものをしている。
 
小学生は、さっそく国語の音読をする。当時は、今のように
音読が盛んだった。教室では、一人ずつ立って読む。間違え
たり、つかえたりすると、次の生徒がつづきを読む。
 
「たのしい潮干狩りで、足袋にはきかえて・・・・」という
ところで、私は、大きな声を張り上げて、
「あしぶくろにはきかえて・・・」と読んでいると、
「シイちゃん、それは、たび と読むんだよ」と、ばあちゃ
んが笑いながら声をかけてくれる。
「ふーん、そうなの、アハハ、はーい」
 
末子のためか、小学1年のころ酒類業招待旅行の熱海へ両親 
と行き、子供用の半纏(はんてん)を着せられ宴席に座ったり、
和菓子党の父ちゃんの使いで、電車通りに面したお菓子屋へ
日参したり。どこからお金というものが入ってくるのか、皆
目見当もつかないで暮らしていた。
 
ただ、今思うと不思議だが、子供のくせになにも欲しがらな
かった。
「仲良しの加代ちゃんが、あれを持っているから買って」と
か、「こんな着物を作って」とか。一度も言わなかった。
戦時中の「欲しがりません。勝つまでは」の標語を地でいっ
たような子だ。
 
確か小学4年生から、画の時間はクレヨンに替わって、絵の
具を使うようになっていた。
クラスの子は、今もある木製の絵具箱に道具を入れて提げて
きていた。私は、姉たちもそうしたからと、母ちゃんが布の
袋を縫ってくれて、それに絵筆や絵具を入れて持たされた。
 
自分だけ、かあちゃん手製の布袋でも平気だった。鈍感なの
かもしれない。
私は、何も言わずその絵筆の袋をぶら下げて学校に行った。
 
ダダをこねないのである。なぜかは分からない。
 
長じてから、「塩入さんは、甘えるのが下手だ」と知人に言わ
れた。たしかに「可愛いげはないよなあ」と密かに自分を笑う。
 
でも、下手とか上手とかいわれても、本人がそうしたいと思わ
ないのだから致し方ないと思っている。
 
子供のときから、物を欲しがったり、他人を羨ましがったりし
たことがない。あまり科学性がないが、B型血液だからかしら
などと考えてみる。
 
上の姉たちは、お花の稽古用にこんな花器を買って、とか、
父ちゃんに「着物を作って」とか、いろいろ要求していた。
 
昭和初期だったが、家業柄、電話もガス風呂もある家で、銭湯
に行ったことは、戦争が終るころ疎開先で経験するまで、一度
もなかった。
 
浅草の家は、南千住行市電の通りから一つ道を入ったところの
角店で、電車通りの向こう側には、大きな毛皮屋さんが並んで
いた。
なぜか、「その家の子とは遊ぶな」と両親から言われていた。
大人になってその理由がわかったが、同級生だったその家の子
と仲良しで、両親に内緒で遊びに行った。
 
鈍な子が、たった一度、親にねだったことがある。太平洋戦争
のはじまる2年くらい前、8歳ころだったと思う。
 
当時、たぬきやキツネの顔の付いた毛皮のえり巻があった。尻
尾もちゃんとついて、口がパカッと開いて、首に回した反対が
わの胴の真ん中あたりで止めるようになっている。
 
仲良しの毛皮屋の同級生の店に沢山並んでいた。とても温かく
て恰好いい。
 
私は、どうしても、このたぬきの顔のついた毛皮のえり巻が欲
しいと思った。
 
冬のある日、そっと母ちゃんに「たぬきのえり巻買って」と言
った。
母ちゃんは、なにも言わず、私の顔をじっと見ていた。
 
翌朝、目が覚めると、枕元に黒茶色の「たぬきのえり巻」があっ
た。黒い目が二つ、こちらを見ていた。
 
遊んじゃいけない、という子と遊んでいる私の心のうちを母ちゃ
んは推しはかったのだろうか。
それとも、一度も「なにかを買ってくれ」と言ったことのない子
の言葉だからきいてくれたのか。いまだに、わからない。
 
そこで、ポツンと記憶が切れている。
 
でも、太平洋戦争が始まる2年前であることと、枕元においてく
れた「たぬきのえり巻」や両親の愛情は、鮮明に覚えている。
 
そして、戦争があらゆる環境を一変させた。
 
70年の時間も過ぎた。
 
子供時代は、子供本人にはつくれない。親や身近な大人、大事な
のは、国が自国の大切な子供として、その時代を育むこと。
自意識をもつ成長までの時間は、子供にとって未来をつくる宝物
のようなときではないだろうか。
 
子供は国の未来を抱いて生まれてきている。と、私は思うのです。
                        (2015/03/23)
 
 
 
ブログ村ランキング
応援のクリックをお願いします
著書の紹介
検索フォーム
アクセスカウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。