プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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駅弁彩見 24 横浜駅 シウマイ弁当

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。



1407IMG_5290 (2)横浜


明治5年開業の横浜駅は、日本で最初の鉄道駅の一つ。
その36年後に崎陽軒が創業。20年後にシウマイ誕生。
「シウマイ弁当」は、横浜のシウマイがほぼ全国区にな
った26年後の、1954(昭和29)年に発売された。
シウマイ誕生には、当時の南京町点心職人である呉さん
の力添えがあった。それを日本の崎陽軒が全国区の横浜
名物に創りあげた。106年の歴史に感ありです



駅弁彩見 24 横浜駅シウマイ弁当 770円(税込)
                  8月1日より800(税込)


横浜駅の、というより、全国区といえる崎陽軒の「シウマ
イ弁当」は、1954年に誕生。今年60周年を迎えまし
た。
知名度の高さに比し、まだ60年?と感じるのは、いかに
その存在が親しまれているか、ということでしょう。
 
駅弁「シウマイ弁当」の現場取材は、2006年でした。
価格は、710円。
 
このたび改めて撮影のため、ふたを開けると、8年前とレ
シピも並べ方も味も、寸分変わりない、いつもの「シウマ
イ弁当」です。
 
昔ながらのシウマイは、1928年発売以来のシウマイ。
国内産豚肉に干し帆立の貝柱と玉ねぎをミンチにし、グリ
ンピースを混ぜてある。塩と砂糖、澱粉、コショウだけで
味付け。無添加。
 
しっかり味がしみて、おつまみにも最適。これだけを売っ
てほしいというリクエストがあるほど人気の筍煮は、独特
の調味料で炊くこと、約20分。さいの目に切ってあるの
で子どもでも食べやすいです。
 
さらに、マグロの照り焼き。タレに浸けた後、300度の
火力で8分焼く。冷めても口中でじんわり旨味が広がるのは
タレに秘密があります。
 
もち米を使わないのに、モチモチッとした感触の白いご飯が
またうまい。強い蒸気で一気に炊き上げるからでしょう。
 
ふんわりの玉子焼き、かまぼこ、鶏唐揚げ、あんず、と、名
脇役がそろいます。
微調整はありますが、基本が変わらない。安心感を与えます。
変えないことも、また、大変なことです。
 
大げさな例えで恐縮すが、駅弁はオーケストラだと思います。
よい駅弁は、ほんの少しの箸休め一つでも、質を落とさない
ことだと、私は考えています。
 
 
売店:横浜駅 新横浜駅 東京駅ほか、神奈川県、東京都を
   中心に約150店 
予約:取寄せ:予約可・取り寄せ不可
崎陽軒:   045-441-8851
お客様相談室:0120-882-380
 
 
1創業当時の店舗
1 崎陽軒旧店舗 大正時代


シウ娘たち (2)  
2 横浜駅のシウマイ娘 昭和30年ころ


3シウマイ 
3 
「シウマイ」の掛け紙 昭和38年



4S04上等御辨當 (2) 
4 
昔の掛け紙 昭和4年



5 
5 
昔の掛け紙 昭和13年



6 
6 初代「シウマイ弁当」の掛け紙。昭和29~34年 



7 
7 
2代目「シウマイ弁当」の掛け紙。昭和35~38年  



8 
8 3代目「シウマイ弁当」の掛け紙。昭和39~平成6年


創業106年 横浜駅・崎陽軒の歴史
黒字=駅  青字=崎陽軒
 
現在の横浜駅周辺は、幕末まで海の中であった。明治維新直後に
埋め立て事業を行い、鉄道が敷設された
 
1872(明治5)年6月 品川駅からの鉄道路線が開通。初代横浜駅
          が開業。日本で最初に開業された鉄道駅の
          一つで(もう一つは品川駅)、現在の桜木町
駅に相当する。駅舎の設計は、アメリカの
建築家R.P.ブリジェンスで、新橋停車場と
同じデザインであった
          ――――――――――――――横浜駅開業
1887(明治20)年7月 横浜駅(初代)-国府津駅間が開通。新橋駅方
          面と国府津駅方面直通列車は、当駅で進行
          方向をスイッチバック(反転)していた
1898(明治31)年8月 東海道本線のスイッチバック解消のために
          横浜駅を経由しない短絡直通線が開通。
          横浜以西への直行優等列車は、横浜の代わり
          二、上りは保土ヶ谷駅、下りは神奈川駅停車
          とし、横浜―保土ヶ谷間を連絡する小運転列
          車が設定されていた
1901(明治34)年10月 短絡線上に横浜の人の利便を図って平沼駅
           (現在の横浜駅に程近い位置)を設置。優等
           列車は神奈川駅と保土ヶ谷駅に代わって、
           平沼駅に停車していた。
1908(明治41)年   横浜駅において鉄道構内営業の許可を受け、
          「崎陽軒」として創業。
       4月 4代目横浜駅長であった久保久行は、妻・
           久保コト(旧姓野並)の名で横浜駅(現在の桜
木町駅)構内営業の許可を受けた
           ­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­――――――――――――――崎陽軒創業
1914(大正3)年12月 京浜間での電車運転開始に伴い、横浜側の仮
終着駅として高島町駅が開業
1915(大正4)年    匿名組合崎陽軒に改組。野並茂吉が支配人(
初代社長)に就任 
1915(大正4)年8月  東海道本線の横浜通過を避けるため、現在の
           地下鉄高島町駅付近に横浜駅(2代目)が開業。
           (旅客駅)。横浜駅(初代)を桜木町駅に改称。
平沼駅廃止。高島駅は横浜駅京浜線ホームと
なる
1923(大正12)年9月1日 駅舎が関東大震災で焼失
        9月7日 しばらくの間仮駅舎を設置して営業。こ
の頃に平沼が完全に埋め立て
1928(昭和3)年 5月 東京横浜電鉄線(現在の東急東横線)が開通
        10月 横浜駅がさらに北側、現在地に移転。東海道
本線を現在のルートに変更。神奈川駅を廃止
           この時、横浜駅には汽車線ホームのみが設置
され京浜線ホームはなかった。そのため、駅
の東口に京浜線仮ホームを設置した。
また、2代目横浜駅元植木構内扱いの高島口
乗降場として残された
1928(昭和3)年    横浜名物崎陽軒のシウマイを独自開発
           12個入り1折 50銭
           横浜駅は、東京駅に近すぎたため、駅弁販売
           に有利とはいえず、関東大震災からの復興を
進める上で、横浜名物を作ることに着手。
南京街(今の横浜中華街)を歩き、つきだしに出
される「シューマイ」に目をつけた。
           しかし、シューマイは、冷めると味がおちるた
           め、駅販売には不向きであった。そこで、南京
           街の点心職人・呉遇孫(ごぐうそん)をスカウ
ト。昭和3年3月、冷めてもおいしい「シウマ
イ」が完成した。
1930(昭和5)年1月  京浜線横浜―桜木町間経路変更、横浜駅に京浜
           線ホーム設置。高島口乗降場閉鎖
       2月  京浜電気鉄道(現在の京急本線)が開通
1933(昭和8)年12月  神中鉄道線(現在の相鉄本線)が開通。現在の西
口は砂利置場だった
1945(昭和20)年5月  横浜大空襲により、駅設備の大半が焼失
1950(昭和25)年    シウマイ娘登場
            戦後の傷跡が残る寂寞とした横浜で「シウマイ
            娘」が誕生。横浜駅ホームに赤い服にたすきを
            かけ、手籠にシウマイを入れ、「シウマイはいか
            がですか」と列車の車窓を売り歩く。
           「横浜にシウマイ娘あり」と評判を呼び、シウ
           マイは、全国区となった
1954(昭和29)年    「シウマイ弁当」の販売開始
           シウマイの発売から約20年。酒悦の福神漬、横
           浜カマボコ、崎陽軒のシウマイの三つの有名品を
主体のシウマイ弁当が誕生した
1965(昭和40)年    第2代社長に野並 豊が就任
1967(昭和42)年   「真空パックシウマイ」の販売開始
           今や一般名称の「真空パック」は、崎陽軒が発案
したものである。日持ちの短いシウマイを「遠方
へお土産に」の声に応え研究を開始。常温で10日、
5度C以下で1か月間保存可能、熱湯に5分で出来
立ての味を再現。「真空パックシウマイ」の開発に
成功、販売となった
1968(昭和43)年8月  横浜市電、駅西口電停廃止
1971(昭和46)年3月  横浜市電、駅前電停廃止
1972(昭和47)年3月  横浜市営トロリーバス廃止
1975(昭和50)年    シウマイ製造工場(シウマイセンター)開設
           需要の拡大、品質の安定化を目指し,第3京浜高速
道路、港北インターチェンジ付近に、シウマイ製造
工場(シウマイセンター)を建設。平成15年のリニュ
ーアルを経て、現在も稼働中
1976(昭和51)年9月  横浜市営地下鉄3号線開通
1987(昭和62)年4月  国鉄分割民営化により国鉄の駅はJR東日本
           の駅となる
1991(平成3)年    第3代社長に野並直文が就任
1996(平成8)年    崎陽軒本店オープン
           横浜に生まれ育った歴史を背景に「横浜料理」を創り
           たい。そんな想いを込めて東口に「崎陽軒本店」をオ
ープン。異国情緒漂う外観に、世界の食文化が集う。
横浜ならではの、横浜料理の創造がはじまった
1999(平成11)年    関東の駅百選に選定さる
2002(平成14)年    戸塚崎陽軒オープン
          本店姉妹店として開業。緑豊かな美しいパティオ(中庭)
          を中心に、全部屋から四季の風情が眺められる複合型レ
ストラン
2003(平成15)年    横浜工場リニューアル、「崎陽軒横浜工場」に改名
           昭和50年開業の「シウマイセンター」(横浜市都筑区)
           を品質安定、安全性の向上のため、全面改修、増築工
事を実施。一般向け見学通路により、稼働設備を公開。
パッケージや歴史などの展示も行う
2004(平成16)年1月30日 東急東横線当駅―桜木町間、この日の終電を
              もって営業終了
        1月31日  東急東横線のりばを地下化
“2008(平成20)年   「100周年100企画」実施
           記念商品やレストランの特別メニュー、記念キャンぺ
ーンなど100の企画を実施。さらに、次の100年に向
けた会社の理念を「崎陽軒100周年宣言」として発表。
2012(平成24)年    おいしさ長もちシリーズ発売           
          包装形態の改良、製造段階から販売にいたるまでの冷蔵
          設備の導入により、シウマイの賞味期限は11日、弁当の
消費期限は4日に延びた。電子レンジで簡単出来立て、
手軽に横浜の味を楽しんでいただけるようになりました
2014(平成26)年7月―――――――――――――――――現在に至る
       ­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­     ―――――――――――――横浜駅開業142年
            ­­­­­―――――――――――――崎陽軒創業106年


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歴史と向きあう

1407エッセーブログ 
東京 東中野の路傍にて



69年前の3月、浅草でB29の爆撃体験者である私は、新聞や
テレビで、東京大空襲や原爆の記事を目にし報道に接すると、
本能的に引き寄せられる。

本年7月3日付読売新聞、「論点」欄でドキュメンタリー映画
監督の東 志津(あずま しづ)氏の作品『美しいひと』につい
ての記事もそのひとつ。

『美しいひと』の主人公は、日本、韓国、オランダの原爆被爆
者である。

日本は世界で唯一の被爆国といわれるが広島・長崎で被爆した
のは、日本人だけではない。悲劇は国を超えて今なお続いてい
る。その現実を、各国の被爆者に会って被爆当時の話、その後、
どう生きたかを訪ねて映像化し、戦争とはなにかを伝えたいと
つくられた映画である。という。

という---- というのは、まだ私はこの映画を観ていない。4月
に長崎で完成試写会があり、8月から大阪、横浜、名古屋で公
開されるということなので。

観ていないのに、おこがましいのですが、この映画制作にまつ
わる様々な事柄に感動や未知の眼を開く機会を与えられたので、
そのことを書きたいと思いました。

広島、長崎の原爆犠牲者約21万人のうち、4万人が朝鮮半島か
らの移住者や強制連行の労働者であったという。

朝鮮半島は当時、日本の植民地であった。
私は小学校の同級生に韓国の人がいて、担任の先生から「あなた、
ニンニク臭いわよ」
などと同級生全員の前で言われていたことがある。子供心に、
「みんなの前で言わなくても」と思ったことを覚えている。

現代の若い人は、なんで、そんなに韓国人が日本にいたのだろう
と思うかもしれない。これは、近、現代史教育の欠如だと思う。

日本で被爆した韓国の人は、韓国のハプチョン原爆被害者福祉会
館で、今、余生を送っている。

70代から90代の人びとは、日本で生まれ育って、日本で教育を
受けて、友達もたくさんいるので、日本を故郷のように思ってい
る。

彼らより上の世代の人々は、大人になってから無理やり連れてこ
られたので、憎しみがあると思うが、今、このハプチョンにいる
人たちは、「広島が恋しい」とおっしゃる。と、東監督は語ってい
る。

また、長崎の爆心地近くの捕虜収容所にいた連合国軍兵士195人
が被爆。7名が亡くなった。その中で多かったオランダ人被爆者3
人を訪ねて話を聞いている。

当時、日本軍の侵攻でインドネシアのオランダ軍は降伏。(かつて、
インドネシアは、オランダの植民地であった) オランダ軍の若者
の多くが捕虜として日本に送られ、強制労働をさせられた。捕虜だ
けでなく、教会のシスターなどもいた。
今でも、インドネシアでの戦争被害の補償を求めて日本大使館の前
でデモをしている人たちを見るという。

日本では、長崎で被爆した、龍(りゅう)智江子さんにインタビューし
ている。
廃墟の前にぼうぜんと立ち尽くす龍さん、その足元の真っ黒焦げにな
ったお母さんの遺体。この写真は、私も見た記憶がある。
 
この龍さんは、2012年に映画を撮影した時は83歳。今は85歳で長
崎の上映会で再会したときは、もう私のことはわかっていない。自分
が映画に出演したことは忘れているが、映画を観て自分が出ていると
いうことはわかるという状態だった。と東監督は語る。

歴史の体験者は、年々減少していく。

長崎被爆の龍さんとお母さんの残酷な写真。
「こういう原爆の写真というのは私たちにとっては原爆の悲惨さを知る資料なんですね。でも写っている人にとっては、ひとつの遺体にしてもその瞬間までそれぞれの人生があったのに、そういうところまで自分の思いが至ってなかったなという後悔もこめて、ひとつの写真からひとりの人の人生をたどってみたいと思いました」
と、東監督は述懐する。

1970年代以降、被爆後、30年くらい経ってやっと海外に住む被爆者に被爆者手帳が出るようになった。

それまでの生活の苦労は、はかりしれないものであったろうと、東監督へのインタビューで語りかける編集者。
朝鮮半島出身者の被爆者は、国に帰ってから白血病や癌で亡くなった人もたくさんいるという。

被爆者にたいする差別は、日本も韓国も同じだろうなと思うのですが、海外の被爆者に対し、なにもせずほっておいたという状況も一般の人はほとんど知らないですよね。と編集者。これに対し、東監督がいう。

「文句があるならアメリカに言え」という人もいますが、サンフランシスコ講和条約を締結した時に「原爆にたいする補償を求めない」という約束をした上で、それと引き換えにこの国はまた独立、繁栄したわけです。なので、落としたのは、アメリカだけど、そういう約束をした以上、日本も責任を負っていかなくてはならないのです。

私はこのことを知らなかった。
友人と議論をしているとき、韓国や中国は今だに補償だの慰安婦問題だのと言うが、日本は、原爆の補償など要求していないと憤っていた。

戦後の高等学校教育でも、このような歴史事実があったことは、教わらなかった。あらゆる会話のなかでも、この事実を話した人は周りにいなかった。そして、東監督も今回のパンフレットをつくるまで知らなかった、という。
私は、自分の国についてこんな大事なことを知らなかったことを恥じた。

東監督は、2009年、文化庁の新進芸術家海外研修制度で1年間パリに滞在。街の至るところに、第2次世界大戦中に犠牲になったユダヤ人を悼む銘板や追悼碑を見る。

戦後何十年かはナチス・ドイツにひたすら責任を押し付けるような形だったが、近年になって、実はヨーロッパ全体がユダヤ人迫害に走っていたということに向き合うことになった。

EUの共同体としてやっていくためには、そのことを乗り越えていかなくてはならない。真正面から向き合って、若い人たちも歴史を知りたいという機運というか、社会の雰囲気があります。

歴史と向き合うという意味では、日本より数段成熟しているなと感じました。と東監督は語る。

ユダヤ人迫害を遂行したのは、ナチス・ドイツだけではない。ヨーロッパ全体が加担していたという歴史認識が、今日では一般的になりつつある。
徹底的に歴史と向き合い、そこから、人間の内面にある危うさをさぐりながら、ヨーロッパの人々は静かに過去と闘い続けている。

日本は歴史を感傷で乗り越えようとはしていないだろうか。
それでは本質にたどり着けないと思う。
人間が人間に何をしたのかを、原爆は問いかけてくる。と語る東監督。

さて、日本人の歴史、69年を経た第二次世界大戦との対峙の仕方はどうか。
長い歴史を持ちながら、日本には「個」の育つ歴史がもてなかったのではないか。御かみ,お上のいうことは間違いない、ごもっとも。

大部落社会のように、同一民族が助け合いながら、少しぐらいの過ちは内内で見逃して、あまり荒立てないで生きてきた。
今回の、東 志津監督のような「個」をもった女性も存在するが、東京都議会という公の場で、女性議員はあれだけセクハラの言葉を浴びせられても、檀上で下を向いて苦笑いをしていた。
なぜ、その場で、すぐに堂々と大声で指摘しないのか。あなたは、同格の議員ではないか。

後になり大勢に支えられて抗議をするのでは「六日のあやめ、十日の菊」であると、私は思う。

自分の不力も嘆きながら考えるが、今の日本という国の矢印の方向をじっと、観つめ直す必要があるのではないか。自分の命がかかっているのですから。

どこかの国の副総理の「憲法改正は、ワイマール憲法のように、ヒトラーに見習って、ある日突然、ナチス憲法に変わっていた。というあの手を使ったらどうか」
という程度の歴史認識をご披露して、無知と非常識で世界を呆れさせた政治指導者がいる国。そういう指導者を辞めさせられないこの国。

ヨーロッパのナチスに対する歴史認識についての姿勢を聴くにつけ、日本の場合、遠因は、戦後からの日本の歴史教育、特に、近、現代史にあるのではないか。など、最近よく思うのです。

とここまで書いてきたとき、本日の新聞にアメリカの歴史学者ロバート・ジェイコブスさん(54) が、原爆や核実験で被害を受けた世界中の人々の証言をインターネットで発信する計画を進めている。という記事(7月25日 読売)があった。

ジェイコブス氏は広島市立大学の教員。広島で、多くの被爆者から話を聞き、衝撃的だった。何もしなければ100年後には忘れられる。と感じたのが原点という。
原爆投下70年目にして、うれしいニュースです。
                                                                     (2014/07/25)


駅弁彩見 23 松江駅 日本海あなご(ANAGO)弁当

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Scan0019切り抜き

JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。



IMG_5264 (2)松江1406 


一文字家は、松江駅開業の7年前、明治34年に旅館業を
創業。明治40年には、東郷平八郎元帥が宿泊の歴史もあ
る。一文字家の名は、もてなす何人かの客の中で一番主な
客である正客に出す,ご飯の最初のひとすくい、「一文字」
から名づけたという。以来、客への「一膳一心」、郷土の
味を守り伝えて113年。2013年12月発売の日本海
あなご(ANAGO)弁当も、伝統の1ページを飾る新駅弁。


駅弁彩見 23 松江駅 日本海あなご(ANAGO)弁当
                                                       1340円(税込)


「ANAGO弁当」を目にしたとき、小型版女性週刊誌か
と思いました。
この駅弁の効能をはっきりうたって、キレイになる、女子
力アップと、日本一の美肌県としての島根をアピール。
 
伝統ある駅弁の掛け紙を見慣れている私には、とても新鮮
でした。
ややッ、ついに出た!と思いました。
 
日本海のあなごが味わえます。日本海産のあなごは、大き目。
荒波育ちで脂がのって旨みが濃厚。
 
このあなごを、醤油と味噌で炊いています。
 
松江には、調味料も年代物の「じもの」があります。
味わいも香りも優れた、奥出雲の本醸造醤油。
 
嘉永7年、ペリー来航の年に生まれ、山陰の人びとに長く愛
されている錦味噌。
この、醤油と味噌の二種類の味覚。特に、味噌味のあなごは
珍しい。茶道の伝統を持つ城下町で愛される味噌は、上品
な味わいです。
酢飯とも感じさせない、しかも、若い女性に適量の酢飯の上に、
「鮨のにぎり」のように盛り付けられていますから、互い違い
に箸をすすめると、醤油味と味噌味が交互に舌に残ります。
 
そして、二つの味が一体となったように、感じます。なんとい
うか、モダンな「あなご弁当」です。
 
箸休めのさくら漬と島根のとんばら漬。さわやかな和菓子のフ
ルーツ餅が、「日本海あなご(ANAGO)弁当」に、ひと味
添えています。
 
売店:松江駅コンコース売店 
予約・取寄せ:予約・取り寄せとも可
一文字家:0852-22-3755






1日本海あなご()ANAGO弁当 
1 日本海あなご(ANAGO)弁当の掛け紙。
松江の観光ガイドなどを紹介。持ち帰り一読を

2明治40年 
2 明治40年、東郷平八郎元帥一文字家旅館に宿泊

3一文字家旅館客室。年代不詳 
3 一文字家旅館客室。年代不詳

4一文字家人力車。大正時代 
4 一文字家人力車部。大正時代

5一文字家自動車部。大正9年 
5 一文字家自動車部。大正9年

 

7 戦時中の掛紙 
7 戦時中の掛け紙

8 戦時中の掛け紙 
8 戦時中の掛け紙


9幕の内弁当の掛け紙。昭和50年ころ 
9 幕の内弁当の掛け紙。昭和50年ころ 






創業113年 松江駅・一文字家の歴史
黒字―駅  青字― 一文字家
 
1901(明治34)年 隠岐航路の船問屋4代目の景山ヨシが殿町で
一文字家本店旅館を開業。松江駅前で、弁当、
食堂、乗合自動車事業で基盤を築く
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­--------------------------------------- 一文字屋創業
1902(明治35)年 シベリア鉄道開通
190(明治37)年 日露戦争
1905(明治38)年 旅順開城、日本海海戦、夏目漱石『吾輩は猫
         である』刊行、日露講和条約議定書(ポーツマ
ス条約)調印
1907(明治40)年 東郷平八郎元帥が一文字家旅館に宿泊
1908(明治41)11月 官設鉄道が安来駅から延伸し、その終着と
           して開業。客貨取扱を開始
------------------------------------松江駅開業
1908(明治41)年  景山ヨシの妹、タダが弁当、雑貨の販売許可
         を取得。構内に茶店、売店、駅前には旅館の
         支店を開設
1909(明治42)10月 線路名称制定により山陰本線所属となる
        11月 山陰本線が当駅から宍道駅まで路線延伸。
           途中駅となる
1920(大正9)年   松江市の乗合自動車許可取得。米国カリフォ
ルニアの親類に依頼。8人乗りのフォードを
輸入、営業
モダンな3階建洋館の「一文字家食堂」を建
てる
1925(大正14)年  殿町の旅館閉館。駅前に統合 
1926(大正15)年  合資会社に改組
昭和初期     7代目を継ぐ景山一郎が婿養子入り。自ら駅ホー
         ムで駅弁の立売などに励む
第二次世界大戦中 一郎は、出征。復員後は一人でも多くの人の食を
         満たそうとご飯にイモを混ぜたり、うどんに海藻
         を入れる工夫で増量。妻のちえ、従業員とともに
         懸命に励む。「一文字家の中興の祖」           
1953(昭和28)年  駅舎を鉄筋コンクリートに改築する(民衆駅第
13号)
1967(昭和42)年  山陰視察の皇太子殿下ご夫妻(現天皇)宿泊
         高度経済成長期、弁当の需要拡大。松江市西嫁島
         に弁当センター建設
1973(昭和48)4月  駅高架化工事着工に伴い、貨物取扱業務を
           東松江駅に移管する
1975(昭和50)年 弁当センター隣接地に1日1万食製造の山陰ナンバ
           ーワンの施設完成
1977(昭和52)3月  高架駅となる
1978(昭和53)年    シャミネ松江が開業
1979(昭和54)年  8代目代表社員に景山一功朗が就任
6階建新館増築。ビアガーデンなど攻めの経営
1982(昭和57)年  島根県スポーツの祭典「くにびき国体」関係弁当
         中毒のアクシデント発生。代表社員一功朗、会長
         景山一郎は、大会後、東北から九州まで患者
         宅を1軒1軒訪問謝罪。「二度と食中毒を起こさ
                       ない」を教訓に現在の徹底衛生管理に生かされている
1983(昭和58)年  島根西部大水害に2万5千食製造。陸路の分断で船
         をチャーター。被災地へ輸送
1987(昭和62)4月  国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR
西日本)の駅となる
1987(昭和62)年  現社員代表景山直観入社
2003(平成15)年  以降、山陰の歴史、文化、イベントにちなむ駅弁に
             注目。しまね地産地消推進協議会、地産地消地域協
         議会が設置された。
         「出雲おくにのかしわめし」発売
2004(平成16)年 「出雲美人」発売
2005(平成17)年  松江市平成町の松江第2卸団地「クレアヒル松江」に
         移転。HACCP(ハサップ)工場認定。全国で11番目、
         松江で第1号。
2007(平成19)年  石見銀山遺跡が世界文化遺産に登録。
         「地サバすきやき銀の鯖丼」発売
2008(平成20)年 「境港水揚げかにめし」発売
2009(平成21)年  9代目代表社員に景山直観が就任
         「蟹としじみのもぐり寿し」発売
2010(平成22)年  「出雲招福ちらし」発売
2011(平成23)年  「神々のふるさと出雲北前船の宝寿し」発売
         しまね地球温暖化防止活動大賞を事業者部門
         で受賞。
         全国低炭素杯優秀賞受賞―東京大学安田講堂
2012(平成24)年 「島根豚みそ玉とん」発売
2014(平成26)7月 ------------------------------------------------現在に至る
                       -------------------------------------------松江駅開業106年
                                        -----------------------------------  一文字家創業113年

「杉並写遊会作品展」のお知らせ

あるカフェ  


昨年9月、長いつきあいの写真仲間と「杉並写遊会」を
つくり、月2回の研究会を重ねてきました。
 
デジタル写真全盛ですが、会員は、長年、フィルムだけ
で写真に親しんできましたので、フィルムと、デジタル
カメラでの作品が、相半ばというところです。
 
男性7名、女性2名の会で、紅2点のうちのひとりです。
あまり欠席もせず、真面目に遊んでおります。
ぜひ、お立ち寄りください。
 
塩入の当番日程 7月17日(木)14~19時
          20日(日)14~19時
          21日(月)14~17時
        記
期間 2014年7月17日((木))~21日(月)
   午前10時~午後7時(21日は午後5時)
場所 阿佐ヶ谷ぶらっとりー
   JR阿佐ヶ谷駅南口下車徒歩2分
   阿佐ヶ谷地域区民センター1階(tel:03-3314-7211)
   杉並区阿佐ヶ谷南1-47-17
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