プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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駅弁彩見 14 三島駅 三島宿ぶたのみそ仕込み弁当

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Scan0019切り抜き

JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。

_4714 三島1308 

 

明治維新により、徳川15代将軍慶喜と共に都落ちした幕臣

数十人が沼津に定住。その一人に小山三千三(みちぞう)とい

う旗本がいた。のち宇野家に婿入り。沼津郊外、桃の産地と

して有名な島郷、桃の木に囲まれた住まいで、俳句や和歌、

茶をたしなみ、酒と料理で人々をもてなして、いつか茶店と

なった。社名「桃中軒」の起源。創業122年の受け継がれ

た味が「三島宿ぶたのみそ仕込み弁当」にも生きている。

 

駅弁彩見 14  三島駅
        三島宿
ぶたのみそ仕込み弁当 780


このお弁当は、先に発売された、やはり三島ブランドの

「恵比寿豚」を使った、同名の駅弁のリニューアル版です。

本年91日発売です。

 

焼肉を一切れ口に入れます。

上品な甘みの味噌風味がとてもまろやかで、

肉そのものの口当たりもとてもやわらかい。

 

三島ブランド認定の「箱根山麓豚」だそうです。

初めての食感です。

箱根山の西麓で、専用の飼料と清らかな地下水で育てられた
肉の繊維が細やかで、甘味のある脂質が特徴。

 

この肉を「伊豆みそ」が原料の特製のタレに漬け込んで、

焼き上げてあります。

「伊豆みそ」は、富士箱根水系の水を使った田舎味噌。

肉を柔らかく素材のうま味を引き出す、今、人気の塩麹や

そのほかの調味料を配合しています。

 

ご飯の上に、きざみ海苔をちらしてから焼肉を盛りつけ、

漬けダレとは配合を変えたタレを、肉に塗ってあります。

好みで、三島産の練わさびをつけていただく。

 

箸休めにそえられた、三島ブランドの「農兵漬」も美味。

「富士の白雪ゃノーエー」で知られる「農兵節」にちなんだ逸品は、

国内で収穫の野菜を糖蜜漬けにして、伊豆天城産の本わさびを

加えたもの。

駅弁はわき役も、おろそかにしてはいけないというのが私の信条です。

 

 

売店:三島駅 沼津駅の桃中軒売店 

予約・取り寄せ:三島駅 沼津駅 桃中軒外商部での予約可、

取り寄せ不可

桃中軒(外商部)TEL 055-963-0154

 

 

桃中軒会館 (2)1308 

本社 鉄筋3階建 昭和3年

 1308駅売店桃中軒

昔の駅立売りの人の控所

 掛紙② 桃中軒1308

昭和10年の掛紙

 掛紙③桃中軒1308

昭和47年の掛紙

 1308掛紙④ 桃中軒

昭和62年の掛紙


創業122年 三島駅 桃中軒の歴史

黒字=駅  青字=桃中軒

 

初代三島駅は、現在の下士狩(しもとがり)

 

1889(明治22)年に東海道線が国府津駅から静岡駅まで開通

した際、東海道の三島宿として栄えた三島町に駅は開設さ

れなかった。

町民の反対によるもの、誘致活動をしたが地勢の都合で

鉄道を通せなかったためとも言われている。

 

そのため町はさびれた。苦境脱出のため1891(明治24)

隣の長泉村に駅の開設を国に懇願したが却下。そのような

中、東海道本線から伊豆半島中部温泉地への便のため、

沼津から大仁への「豆相(ずそう)鉄道」-伊豆箱根鉄道

駿豆(すんず)線の前身-の計画が立案。そこで三島町で

は土地の無償提供により誘致を行い三島町経由、長泉村で

東海道線と接続するように計画を変更させた。これにより

東海道線が開通した9年後に豆相鉄道線の分岐駅として、

ようやく現在の下士狩駅である「初代三島駅」が設置され

たのである。

 

後、丹那トンネルの開削により、三島市街を通過せずその

南を通るルート案であったのを、当時の三島町長が時の

鉄道院総裁の後藤新平に直接交渉し、現在地に新三島駅を

開設。これに合わせて、以前の三島駅を下士狩駅と改称、

豆相鉄道改め、駿豆鉄道の起点も新三島駅に変更された。

かくて、三島町ではようやく市街地近くに駅が誕生。

東海道本線の三島駅(2代目)はこのようにして開業された。

 

 

1891(明治24)4月――沼津駅構内で弁当の販売権を得て創業

            初代社長に宇野三千三就任 

―――――――――――――桃中軒創業 

1911(明治44)年――――2代目社長に宇野秀吉就任

1913(大正2)年―――――沼津の大火により本社焼失

1926(大正15・昭和元)年――2度目の大火により本社焼失 

1928(昭和3)年―――――鉄筋3階建西洋館本社完成

1930(昭和5)5月―――個人商店から株式会社に組織変更

1933(昭和8)年―――――鉄道弘済会発足。酒、菓子、新聞など

の販売権が弘済会に移る

1934(昭和9)12月――丹那トンネル開業に伴う東海道本線のルート

           変更と同時に三島駅(2代目)として開業。

同時に駿豆鉄道線(現伊豆箱根鉄道駿豆線)

           が乗り入れ-―――――――――三島駅開業

1962(昭和37)9月――三島駅構内に支店三島店開設――創業71

1965(昭和40)11月――沼津市上町8番地に弁当製造工場新築

1967(昭和42)11月――国鉄理事会で三島での新駅設置が正式に決定

1967(昭和42)10月――沼津市大手町6番地に桃中軒会館新築

1968(昭和43)年4月――駅舎の着工

1968(昭和43)11月――御殿場駅構内にそば店開設

1969(昭和44)4月――駅舎の完成

        4月――東海道新幹線の駅が開業

1969(昭和44)4月――新幹線開通に伴い新幹線三島駅待合室と
                    ホームに
売店を開設――――――――創業78
1972(昭和47)年――――3代目社長に宇野三郎就任

1985(昭和60)年――――4代目社長に宇野統彦就任

1987(昭和62)年4月――国鉄分割民営化により、国鉄の駅は東海旅客

鉄道(JR東海)と日本貨物鉄道(JR貨物)が継承

1988(昭和63)10月――桃中軒会館を「エイプルコア」に名称変更

1989(昭和64)6月―――沼津市千本港町に弁当製造工場新築

1993(平成5)2月―――在来線改札口に自動改札機導入

1993(平成5)7月―――沼津市大手町に本社屋を新築

1998(平成10)3月――新幹線改札口に自動改札機導入

2001(平成13)9月――第3回「中部の駅百選」に選定される

2003(平成15)10月――東海道山陽新幹線ダイヤ改正によりひかりが

増停車。(1日3往復から6往復に増加)

2003(平成15)4月――港あじ鮨を新発売―――――――創業112

2005(平成15)7月――大手町本社を港町工場2階へ移転

2006(平成16)3月――桃成開発()と合併

2007(平成17)12月――ドトールコーヒー加盟店となり、三島駅

            北口店オープン

2008(平成20)3月――東海道線でICカードTOICA供用開始

        6------アスティ三島(駅構内の商業施設)オープン
2011(平成23)年――――5代目社長に綾部宏之就任

2013(平成25)8月―――現在に至る------------------三島駅開業79

                 ――――――桃中軒創業122

 

 


 
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おむすび

Scan0034.jpg 
家屋の裏側で見たお飾り(東京・神楽坂)

 

 


なぜか、おむすびにすると食べられる。

お米のご飯より、パン食の人が増えているが、おむすびは、

また別格なのでは、と思う。

 

このおむすび、または、おにぎり。

 

おむすびは、お結びで、良い縁を結ぶの意味もあり、本来は

京の女官言葉だという。

 

おにぎりは、にぎり飯の丁寧な言い方。鬼切りで、禍を避ける。

従って、祝いの席では使わぬほうがよいといわれている。

 

総じて、東はおむすび、西の関西以西(九州を含む)は、おにぎり

と呼ぶことが多いという。

私は、めちゃめちゃで、両方使っている。

 

さかのぼると、古代、神への供物としてつくられ、

万物の産みの神「産霊(むすび)の神」との関係を指摘する説もある。

 

だんだん、「おむすび」が神々しくなってくる。

 

私には、「おむすび」が、この上なく神々しく思えたことがある。

 

1945(昭和20)310日。太平洋戦争末期、東京大空襲で逃げまどい

いつしか、浅草の家から言問橋をわたり、向島の小梅小学校にたどり

ついていた。

 

何百人もの人が教室や講堂に避難していた。

父は町内会の責任者で家に残った。出征していた二番目の兄の妻、

兄嫁は臨月だった。その兄嫁をかばって、姉と私はその小学校に

避難した。

 

教室は人でいっぱいで、廊下に座り込んでいた。

310日の朝がしらじら明けたころ、男性の声で「どなたか、

おむすび作りを手伝ってくれませんか」と叫んでいた。

 

姉と私は、目を見合わせた。「お腹もすいている。手伝おう」

 

炊事室には、白いご飯が大釜で炊けていた。

 

姉と私は、おむすびをにぎった。

ビニール袋もサランラップもない時代。

素手で、アツアツのご飯をにぎる。その熱いこと。

みんな待っている。急いでにぎる。

ときどき、水に手をひたして、冷ましながら、

ひたすらおむすびをにぎる。

 

姉と二人で、700個くらいにぎっただろうか。

おむすびは、にぎるそばから、教室や講堂で避難している人たちの

ところへ運ばれる。

3時間くらいで作業は終わった。

 

5個づつ余計におむすびをいただいて、

ふたりの姉とその小学校を後にした。

 

「おむすび」にもひとりひとり、物語がある。

 


駅弁彩見 13 姫路駅 姫路官兵衛辨當

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Scan0019切り抜き

JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。



1308_4665 姫路


本年8月9日、2014年に放映予定のNHK大河ドラマ

『軍師官兵衛』にちなむ駅弁が、姫路駅に誕生した。

姫路は官兵衛の誕生地。黒田孝高(よしたか/官兵衛/如水)

14代姫路城の城主でもある。秀吉の右腕としてその知略で

みごと主君を天下人にした。秀吉の馬印、ひょうたんの器に、

ふたは、官兵衛の甲(かぶと)の色を採用、往時を偲ぶ。

創業125年のまねき食品、旅人と郷土への心意気の新駅弁。


駅弁彩見 13  姫路駅 姫路官兵衛辨當  1200

縁起のよい、ひさご(ひょうたん)形の器をあけると、

にぎやかな彩(いろどり)です。

黒田官兵衛の生まれた播磨の国の“うまいもの”が並びます。

 

あなご飯と、ちらし寿司の2種類です。

 

あなご飯は、

炭焼き風アナゴときざみアナゴ、ショウガ。錦糸玉子やのりを

あしらい、ご飯はダシで炊いた味付け飯。

 

ちらし寿司には、

タコ、エビ、サゴシ(サワラの幼魚)の酢の物、花蓮根、いかなご

の釘煮や山菜。下は少し甘めの程よい酢飯。

 

いずれも量をふやせば、そのままあなご飯の弁当、ちらし寿司の

一品となるので、二つの味が賞味できます。

 

さらに、ひさごの頭には、菜の花のゴマ和えや、きんぴらごぼう

が薄味で仕上げてあり、さっぱりした大根なますの3種がたっぷ

り添えられています。

 

秀吉の側近、戦国武将の大名として

「人に媚びず、富貴をのぞまず」と生きた黒田官兵衛にちなむ

さわやかな味わいの駅弁です。

売店:姫路駅(在来売店、中央売店、新幹線売店) 東京駅:祭

予約・取り寄せ:姫路駅売店での予約可、取り寄せ不可

まねき食品:TEL 079-224-0255


旧社屋全景
昭和5年竣工の旧本社


 下処理
昔の駅弁下ごしらえ室


盛付け
昔の調理室

 
包装・飯入れ 
昔のご飯詰めと包装室


初代・1 
初代姫路駅 明治21

二代目・2余白カット

 2代目姫路駅 昭和21

昭和・3

3代目姫路駅 昭和34

 

戦前 

戦前の掛紙

戦中 
戦中の掛紙

戦後 

戦後の掛紙

創業125年 姫路駅 まねき食品の歴史


黒字=駅 青字=まねき食品


 

1888(明治21)12月――山陽鉄道明石駅―当駅間開通と同時に開業

          ――――――――――――――――姫路駅開業

1888(明治21)12月――初代竹田木八創業。店名を「まねき」とする。

            由来はお客様を「おまねきする」という意味

            から命名――――――――まねき食品創業

1889(明治22)11月――山陽鉄道当駅―竜野駅間が開通

1889(明治22)年――――姫路駅構内で弁当、茶の販売開始。我が国で

           最初に経木の折箱入りの「幕の内辨当」を販売

1894(明治27)年7月―― 播但鉄道当駅-寺前駅間が開通

1895(明治28)年4月―― 播但鉄道当駅―飾磨駅(後の飾磨港駅)間開通

1903(明治36)6月―― 播但鉄道が山陽鉄道に路線を譲渡。山陽鉄道

            のみの駅となる

1906(明治39)12月――山陽鉄道国有化により国有鉄道の駅となる

1909(明治42)10月――線路名称制定。山陽本線の所属となり、旧

            播但鉄道線は播但線となる

1930(昭和5)9月―――姫津線(現在の姫新鮮)当駅―余部駅間が開通

1934(昭和9)3月―――姫津西線開業に伴い姫津線が姫津東線に改称

1936(昭和11)年4月―― 姫路駅―東津山駅間全通による線路名称改定

            により、姫津東線が姫津線に再改称

                  10月――姫津線が姫新線に改称

1944(昭和19)年――――株式会社設立。「まねき食品株式会社」とする

1945(昭和20)7月――姫路大空襲により初代駅舎焼失

1946(昭和21)10月――二代目駅舎竣工――――――2代目駅舎竣工

1949(昭和24)10月――ホームでまねき独特の「えきそば」販売開始

1959(昭和34)11月――三代目駅舎が全国23番目の民衆駅として竣工。

            姫路駅デパート(駅ビル)・地下名店街(地下街)

            開業―――――――――――3代目駅舎竣工

1972(昭和47)3月――山陽新幹線新大阪駅―岡山駅間開通により新幹線

            停車駅となる

1973(昭和48)年――――姫路市北条にまねき本社工場を完成移転する

1983(昭和58)年―――――駅ビル・地下街をリニューアルし、フェスタ

(駅ビル)フェスタガーデン(地下街)が開業

1987(昭和62)年4月―――国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道

(JR西見本) の駅となる

1992(平成4)6月――――姫路市北条に日本料理「竹善」を開業

1995(平成7)117日――阪神・淡路大震災により山陽新幹線新大阪駅―

             当駅間が不通となる

      4月8日――山陽新幹線不通区間が運行再開

2003(平成15)10月―――のぞみ停車開始

2003(平成15)10月―――播州姫路名物「一国一城」発売

2004(平成16)8月―――「播磨ゆかりの20人」に創始者竹田木八が

             選ばれサンテレビで放映される

2005(平成17)1月――――山陽新幹線開業30周年記念「復刻!懐かしの

             駅弁」として「あなご寿司弁当」発売

2005(平成17)12月―――「播磨のうまいものショップ」として

              インターネットショップ開設。「えきそば」

             「あなごパイ」「竹善のポン酢」を販売

2006(平成18)3月――――朝6時当駅始発の「のぞみ80号」東京行

             (現在「のぞみ102号」)が設定される

2008(平成20)12月―――姫路駅構内に、おにぎり売店「ひさご」開店

2013(平成25)年3月――――地下街がリニューアルし、「グランフェスタ」

              として2年ぶりに再開。

       4月――――新駅ビル「ピオレ姫路」がグランドオープン

       8月――――現在に至る-----------------姫路駅開業125

                  ―――――まねき食品創業125

マーシャル諸島

IMG_3423 - コピー 

モーツァルト 新宿御苑バラ園

ハワイとオーストラリアの中間にマーシャル諸島という島がある。

日本の南、約4600kmのところ。

 

面積 180平方キロメートル。日本の霞ヶ浦とほぼ同じ大きさ

人口 61,026人(2009年、世界銀行)

首都 マジュロ

 

正式には、マーシャル諸島共和国で、太平洋上に浮かぶ島国。

真珠の首飾りと呼ばれるマーシャル諸島の全域を領土とする

ミニ独立国家である。

 

少し遠いが、日本の若者たちが、静かで、サンゴが透けて

みえるほど、透明な海の色、きめ細かな砂のさらさらした

気持ちよさで最高、という感想を寄せている。

テレビコマーシャルにも使われる美しい島として好評である。

 

私が小学生のころの地図には、南洋の島々には日の丸の旗が

いたる所についていた。マーシャル諸島も日本の国旗が付い

ていたと思う。

 

この国の成り立ちをみてみると、この島は、

 

1528年、スペイン人が発見、領土権を宣言するが実質統治

をしなかった

1885年、ドイツ保護領となる

1914年、第一次大戦勃発、日本はドイツからマーシャル

を含むミクロネシア(南洋群島)の島々を無血占領

1920年、国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任

統治が認められる。以後、日本は南洋庁を置き、

経済開発を行い、砂糖などを日本へ輸出して

貿易黒字であった

という歴史をもつ。

 

1941(昭和16)年12月8日太平洋戦争の宣言によって

ミクロネシアー小さな島々―の戦乱も始まった。当然、

日本の領土に日本軍がおくられる。

 

兵器の技術、物量,情報などすべてに遅れていた日本は、

2年後の1943年にはミクロネシアでの日本軍は敗退。

 

マーシャル諸島の日本軍は玉砕した。日本からの補給路を断

たれ、食糧や医薬品の欠乏で死んだ。

 

そして、翌1944年にはマーシャル諸島をはじめ、ミクロ

ネシアはアメリカ軍占領下におかれた。

 

そのとき、日本の国民は、アメリカの新兵器B29の完成に

よって日本本土を日々爆撃されていた。

 

マーシャル諸島がアメリカ軍に占領された翌年の1945年

3月10日、私の浅草の家は空襲で焼けた。父は浅草寺で煙

にまかれて死んだ。

 

戦争が終って2年、1947年に或る通知で知って以来、

「マーシャル諸島」の名は、66年間忘れたことはない。

 

さらさらときれいな砂浜、サンゴが透きとおって見える、

テレビコマーシャルにも採用の美しい海が最高!という島。

 

この島で、私の三番目の兄は、23歳で玉砕した。

 

日本の若い人たちは、マーシャル諸島がかつて日本の領土

であったと知っているだろうか。

                   (2013/08/14

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