プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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駅弁彩見 12 米沢駅 米沢牛炭火焼特上カルビ弁当

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。



4631 米沢1307


米沢牛のうまさを広めたのは、英国人貿易商のチャールズ・
ヘンリー・ダグラスさん。1871(明治4)年、米沢藩が英国
と条約を結び、英語教師として米沢に赴任。横浜へ帰る際
1頭の米沢牛を連れ帰り、仲間にふるまったのがきっかけ
とか。140年経ち、平成の時代に美味駅弁で旅ゆく人びと
に喜びを贈る。
松川弁当店は、牛肉弁当を作り続けて114年になる。



駅弁彩見 12 米沢駅 米沢牛炭火焼特上カルビ弁当1500円

フタを開けると、大振りの炭火焼カルビが5枚、ご飯も見えないほど
しきつめられています。

焼肉の定番はやっぱりカルビ。
カルビは朝鮮語のあばら(肋骨)で、その周りについている、
いわゆるバラ肉がカルビです。

牛肉の駅弁は全国にたくさんありますが、おなじ味のものはありません。

このカルビ弁当は、松川弁当店特有の味付けが自慢です。
箸で切れる柔らかさと口中にひろがる滋味は、世界一といわれる
和牛の旨さを堪能できます。

ほかに、牛肉入りのシューマイが2個。
ぎゅっと、そのおいしさが詰まった歯ごたえ十分の特製シューマイです。
さらに、半熟煮玉子と大豆モヤシのナムルが添えてあります。

下のご飯は、山形のブランド米「つや姫」が、
本当につやつやピカピカです。
日本のお米の味です。
気がつかないうちに、食べ終えています。

2010(平成22)年、東日本縦断東京駅駅弁大会で、
人気ナンバーワンの記録がでました。


売店: 米沢駅 東京駅 新宿駅 上野駅
予約・取り寄せ:10~4月の期間限定です
松川弁当店:TEL 0238-29-0141



)1990年ころー米沢駅ホーム売店林真人社長
米沢駅ホーム売店1990年ころ。社長の林真人さん



掛神松川13074   掛紙松川13073
昔の掛け紙各種(いずれも年代不詳)

1307松川掛け紙

13072掛け紙松川

掛け紙松川13075


創業114年 米沢駅 松川弁当店の歴史

1899(明治32)年5月15日――国有鉄道奥羽南線福島~米沢駅間開通
             と共に米沢駅開業-――――――――米沢駅開業
1899(明治32)年5月―――――奥羽本線米沢駅開業と共に松川弁当部として
              駅構内立売業を始める
-------------松川弁当店創業
1900(明治33)年4月21日――米沢駅~赤湯駅間が開業。
1901(明治34)年――――――― だんご、枝豆、菓子、アイスクリーム、鯉弁当
             (郷土料理)を中心にホームで販売 (当時は昼夜販売)

1905(明治38)年9月14日――福島駅~青森駅間全線開通。
1909(明治42年―――――――米沢駅にて初の幕の内弁当を製造販売する
1923(大正12)年――――――― 米沢駅前に食堂を経営する。

1926(大正15)年9月--------------米坂線米沢―今泉間開開業
1949(昭和24)年4月29日――福島駅~米沢駅間が直流電化に変更
1955(昭和30)年―――――――資本金120万円で有限会社松川弁当店を設立。
              代表取締役社長に林正道が就任

1959(昭和34)年―――――――米沢牛すき焼き弁当を販売開始
1965(昭和40)年―――――――急行「蔵王」車内販売。すきやき弁当を中心に開始。
1968(昭和43)年9月22日―― 福島駅~米沢駅間が交流電化に変更
1969(昭和44)年5月―――――代表取締役社長に林トヨ(妻)が就任
1974(昭和49)年)11月1日――米沢駅~新庄駅間にCTCが導入。
1984(昭和59)年12月1日――福島駅~米沢駅間でCTCが導入。
1987(昭和62)年 4月1日―― 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる
1989(平成 元)年―――――― 東北初の加熱式容器使用のすきやき弁当を販売。
              5月現社長東京より帰省。その後5年間駅構内での
              立売りや車内販売で修業

1990(平成2)年3月10日―― 山形新幹線直通化による改軌工事のため赤岩駅の
              スイッチバックが廃止
1990(平成2)年9月1日――― 山形新幹線直通化による改軌工事のため板谷駅・峠駅・
              大沢駅のスイッチバツクが廃止
1991(平成3)年―――――――180万円を増資し、資本金300万円とする
1991(平成 3)年11月5日―――福島駅~山形駅間が標準軌に改軌。
1992(平成4)年――――――― 山形新幹線開業、牛肉道場を販売開始
1992(平成4)年7月1日―――福島駅~山形駅間に「山形線」の愛称が名づけられる
1993(平成5)年11月-----------現在の駅舎完成
1993(平成5)年9月―――――林トヨが代表取締役を退任。林真人が後任として
               代表取締役社長に就任 (27歳
)―――――創業94年
1995(平成7)年7月―――――米沢市東3丁目に焼肉店「べこや」を開店
1999(平成11)年12月4日―― 山形新幹線新庄延伸(山形駅~新庄駅間改軌)。
               この区間も愛称の「山形線」に含め福島駅~
               新庄駅間が「山形線」となる。
1999(平成11)年―――――――創業100年 社団法人日本鉄道構内営業中央会
               より100年の業績の顕彰を受ける
-------創業100年
2000(平成12)年3月―――― 米沢市中央2丁目に第2号焼肉店「いろり
              を開店。牛串弁当・牛べこを販売開始。
2001(平成 13)年―――――― BSE騒動による売り上げ激減
               牛釜めしを販売開始

2002(平成14)年------------------ 東北の駅100選に選定(旧米沢高等工業学校本館
              を模した洋風駅舎が特徴)
2002(平成14)年―――――― 全国初の「メロディ弁当」牛角煮弁当と牛めしを
               販売開始
2003(平成15)年――――――― Wで旨いカルビ丼・焼肉弁当バカー代・松茸入り
               牛肉弁当の販売開始
2004(平成 16)年4月―――― 米沢市金池5丁目に中華料理店「三男坊」を開店
                厚切牛肉チャーシュー丼を販売開始
2005(平成 17)年―――――― 牛肉ビビンバ丼・牛たん重 はえぬき・
                「空弁」牛肉弁当、 らーめんどんぶり・牛巻めしの
                販売開始。
2006(平成 18)年―――――――復刻版 上等すきやき弁當・牛肉弁当を販売開始
2007(平成 19)年)7月―――――米沢市徳町4丁目に第3号焼肉店「美炭」を開店
                 拙者 牛肉侍と申します・牛肉三昧を販売開始
2008(平成 20)年4月―――― オフィスアルカディアに新社屋・工場完成
2008(平成 20)年10月―――― 米澤牛焼肉重松川辨當 東日本縦断東京駅駅弁
                大会にて人気NO.1
2009(平成 21)年1月――――― HACCP認定(国際的に認められた食品の安全性・
                衛生管理方式
――――――――――創業110年

2010(平成 22)年4月―――――米沢牛炭火焼特上カルビ弁当 東日本縦断東京駅
                 駅弁大会にて 人気NO.1
2013(平成 25)年7月――――― 現在に至る
―――――――米沢駅開業114年
                   ―――――――松川弁当店創業114年



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おめざ

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3歳ぐらいから小学校終了まで、毎朝起きると、枕元に「おめざ」があった。

たいしたものが入っているわけではない。

 

金平糖(こんぺいとう)156粒とか、前日、来客のおみやげの落雁が2個とか、時には、ミカンが1個とか。

半紙のおひねりにくるまれていて、目がさめたとき、ちょっと楽しみだった。

 

なんのためとか、どうしてとか、聞く相手はもう存在しないので、わからない。

 

もう、十数年も前、行き付けの飲み屋で雑談に花が咲いていたとき、話をしたら、たちまち驚かれた。嬢ちゃんにされた。

 

こちらが驚いた。それまで、日本の子供は、みんな朝起きたら、「おめざ」をもらっていた、と思っていたからだ。

 

それからは、よく、冷やかされた。

考えてみると、そうではない、ということがわかるはずだ。ドラマの「おしん」を見たり、ちょっと想像力を働かせれば、そうではないことぐらい、いい歳をして分かるはずだ、と、思った。と書くのは、自分をカモフラージュしている。

 

本当は、心底、「おしん」でも「おめざ」をもらっていた、と私は思っていたからだ。

 

その根拠は、お金のかからない、中身も大したものではないからで、育てる側がそうしようと思えば、どんな環境でもできる程度のことだからである。

 

東京という土地柄か、昭和の時代の風習か。親が子ども時代に経験して、無意味に子どもである私にも繰り返しただけなのか。

 

ただ、「おめざ」 という言葉は、3歳ころから私の記憶に刻まれているから、私にとっては、両親の顔と共に、なつかしい言葉として体中に浸み込んでいる。

 

というわけで、もう、大分前から、あるテレビ局の朝の番組で、「さあ、今朝の○○さんのおめざは、○○のスイーツです」などと立派なケーキがでてきたのにはびっくり仰天。あれは、「おめざ」じゃない。と瞬間思った。

公けの場での、内容とあまりかけ離れたネーミングは、本質をはずれはしないかと、柄にもない心配をする。

 

しかし、冷静に考えると、私自身おめざの根拠を知らないので、大きなことは言えない。

ちょっと調べたところによると、子どもが昼寝から覚めたときに口さびしいので、与えるお菓子。という解説があった。

 

これなどは、当を得ているかもしれない。東京の浅草で育った女の子の「おめざ」は、親が商家で忙しいので、それを朝に繰り上げたのかもしれない。

 

ネットで、30代というお母さんは、「おめざ」などという言葉自体が気に食わない。第一、朝から起きたとたんに甘いものなど食べさせたら、歯の衛生にもよくない。まったく不要。と、手厳しいものもあった。

 

今は、情報満載、知識も豊富で合理的に家事をこなし、断捨離で家を整理してと、賢い人が多くなった。こういうことを親ではなく、テレビや書物で学ぶようになった。

 

手間と時間をかけて、今では無駄と思えることを、昔の親はひたすら無私の心で枕元に、「おめざ」を、夜中にそっと、置き続けたのかもしれない。

 

人は、いろいろな思い方や考えがあってこそ、付きあいの面白さがある。お金も経験も無駄をしないと、間()のいい人間になれない、と思う。

 

子どものとき毎日「おめざ」を食べた私は、歯医者さんから、「昭和前半生まれの人は歯の質がいいですね」と、変な褒められかたをした。

 

先日、88歳になる姉とおしゃべりしていたら、彼女が『子供のときの朝のおめざはたのしみだったね』と、ふと言った。

 

私は黙って「うん、うん」とうなずいた。
                               
(2013/07/31)

駅弁彩見 11 和歌山駅 小鯛雀寿し

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。


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「小鯛雀寿し」の起源は源平時代に平維盛が好んだ兵食と
伝えられている。ふくら雀のような愛らしさと、さっぱり
コクのある味の良さで長い人気を保っている逸品。
1987年4月号から24年半連載の『JTB時刻表 駅弁細見』
第1回目、初取材の記念すべき駅弁として印象深い。
26年前に編集部と熟考、選んだ駅弁「小鯛雀寿し」は、
115年の老舗の味、紀州名物として、今も健在である



駅弁彩見 11 和歌山駅 小鯛雀寿し 2250円

1987年2月、和歌山駅に降りた私は、駅弁の売店に直行した。
調製元の調理場での取材の前に、売店で話を聞くためです。

「小鯛雀寿し」のあれこれの雑談のあと、店の女性が
「そうそう、お客様から、えっ、これスズメのお寿司じゃ
ないの?って言われたことあります」と話してくれて、
「わたしもやりそうだ!」と内心思いながら、大笑いした
記憶があります。

紀淡海峡の海流にもまれた鯛は、身がしまっておいしい。
「小鯛雀寿し」は、チャリコとよばれる小鯛を使います。

三枚におろした鯛は、塩につけて洗ってから酢に浸けます。
30分ほど浸けたら、ゆっくり1日ねかせて、味を引き出します。

酢飯は、昆布ダシに独特の調味を加え炊き上げて、あと、
酢合わせをします。
にぎり寿司より大きめに握り、小鯛をのせて仕上げにテリを塗って
形を整えます。

小鯛の酢加減と酢飯の味が抜群で、そのまま握り寿司のように
つまんでいただく。

内緒で「私の小鯛雀寿し」の楽しみ方をお教えします。
私は日本酒党なので、上の酢じめの小鯛だけを肴にお酒を
たのしみます。まさに佳肴です。
そして、
おいしい酢飯だけ残します。お酒もほぼ終わったら、
そのままでも、半分にしてもいいのですが、ただ海苔を巻いて、
ついているショウガと醤油(これは自前)でいただきます。

ふつうより上質の海苔巻が味わえます。
「雀寿し」を調製した方には怒られるかもしれません。から、
内緒です。
ただし、列車の中ではできません。持ち帰りか取寄せの場合です。

その土地のうまいもの、生ものの駅弁なんて、将来はともかく、
日本だけでしょう。


●売店―和歌山駅 駅ビルMIO売店 阪和道紀ノ川SA上り線
●予約・取り寄せ可―「駅弁アロー」オーシャンアロー号・ 
                     くろしお号は指定席まで配達。4日前に予約
●和歌山水了軒――TEL 073-475-6150



明治・和歌山市駅前売店 
明治36年ころの和歌山市駅前売店

1307-3和歌山
かつての掛紙いろいろ

和歌山1307-1
昭和53年ころの掛紙

和歌山1307-4
高野山開創1200年(平成27年)使用予定の掛紙


創業115年 和歌山駅 和歌山水了軒の歴史

1898(明治31)年――――船戸仮駅を開業させた紀和鉄道が 
                                 和歌山駅(現在の紀和駅)を建設――――和歌山駅開業
1989(明治31)年――― 南海鉄道和歌山北口(紀ノ川北岸)駅にて
           構内売店を開業
――――――――――和歌山水了軒創業
1903(明治36)年――― 南海鉄道(現在の南海本線)が和歌山市駅を開業
           当時は利便性からこちらが新しい和歌山の玄関になった
1903(明治36)年2月――初代八木亀太郎が和歌山市駅前に 
                                和歌山水了軒を創設。
           同時に南海和歌山市駅構内にも売店開業
1913(大正2)年3月――2代目 八木利三郎就任
 
1924(大正13)年2月――国有鉄道紀勢西線の和歌山駅(現在の紀和駅) 
                             -箕島駅間開通により東和歌山駅として開業。
            同時に山東軽便鉄道(現在のわかやま電鉄 
                                貴志川線)が乗り入れ
1929(昭和4)年11月――山東軽便鉄道が山東鉄道に社名変更 
1930(昭和5)年4月―――国鉄和歌山駅前に店舗新設
1930(昭和5)年6月―――阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)が和泉府中駅―
            阪和東和歌山駅間を開業。同時に合同電気(後の南海 
                                 和歌山駅軌道線)も公園前駅―当駅間を開業
1931(昭和6)年4月-―――山東鉄道が和歌山鉄道に社名変更
1932(昭和7)年5月-―――和歌山駅にて国鉄構内営業を許可される-------創業34年
1940(昭和15)年12月――-阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され南海鉄道山手線
            に。同時に阪和東和歌山駅を南海東和歌山駅に改称
1944(昭和19)年5――― 南海鉄道山手線が国有化され国有鉄道阪和線に。
            同時に南海東和歌山駅が国鉄の東和歌山駅に統合
1946(昭和21)年3月―――3代目 八木慶三社長に就任
1947(昭和22)年8月-――和歌山市駅前店再建(昭和20年戦災により焼失)
1953(昭和28)年10月――株式会社水了軒に改組

1957(昭和32)年11月――和歌山鉄道が和歌山電気軌道に吸収合併され、  
                                 和歌山鉄道線は和歌山電気軌道の鉄道線に
1959(昭和34)年7月――-亀山駅―和歌山駅(現在の紀和駅)間全通し同区間が
            紀勢本線に
1961(昭和36)年11月――-和歌山電気軌道が南海電気鉄道に吸収合併され
              和歌山電気軌道鉄道線は南海貴志川線に
1967(昭和42)年2月―――和歌山駅前都市計画のため本社屋を新設
1968(昭和43)年3月――― 現在の和歌山駅に改称。現在の駅ビルが使用開始。
            「和歌山ステーションデパート」となる
1968(昭和43)年3月―――和歌山ステーションデパート地下及び2階に
            店舗新設

1970(昭和45)年7月―――和歌山駅改装に際しコンコース、各乗降場に売店新設
1971(昭和46)年4月―――南海和歌山軌道線が廃止
1972(昭和47)年3月―――国鉄和歌山線の貨物支線であった田井ノ瀬駅から
            当駅までの旅客営業が開始。同線の旅客列車が当駅に
             乗り入れ
1974(昭和49)年10月―――阪和自動車道開通に伴い水了軒紀州食品(株)
            (紀ノ川SA上り)設立
  
1987(昭和62)年4月―――国鉄分割民営化により国鉄各線が西日本旅客鉄道 
                                  (JR西日本)に承継
1987(昭和62)年3月―――4代目 八木一朗就任―――――――――-創業89年
        4月――― 和歌山ターミナルビル内JOWA5Fに纏寿し営業開始
1995(平成7)年11月―――駅ビルの名称を「VIVO和歌山」に変更。リニューアル
             オープン
2005(平成17)年2月―――株式会社和歌山水了軒に社名変更
2006(平成18)年9月―――本社社屋を貸しビルに改装
       11月―――本社社屋JR和歌山駅東口側に移転

2006(平成18)年4月―――南海貴志川線を和歌山電鉄が継承、同線はわかやま電鉄
             貴志川線に
2010(平成22)年3月―――駅ビルの名称を「和歌山MIO」に変更。 
                                   再リニューアルオープン
2013(平成25)年7月―――現在に至る-------------------------和歌山駅開業115年-
               ―――――――――――和歌山水了軒創業115年




ありがたい

エッセー 
                     

コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。
この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「お礼をいうだけの値打ちがある」と
いう意味で使われているね。
しかし、この言葉のもと(。。)の意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。
「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持ちになる。
それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。

ところで、広い世の中を見渡して、その上で現在の君をふりかえって見たら、君の現在は、本当に言葉どおり「ありがたい」ことではないだろうか。

この一文は、吉野源三郎著 『君たちはどう生きるか』
岩波文庫 1982年版四 貧しき友--人間であるからには
(おじさんのノート)136頁からの抜粋である。

主人公は15歳、成績優秀な中学2年生で、愛称コペル君。
本名本田潤一。中流の比較的裕福な家庭に母と暮らす。
銀行の重役の父は2年前に死亡。ばあやと女中が一人。

近所に住む母の弟の叔父さん(法学士)のアドバイスを受けながら、太平洋戦争の始まる直前の時代を背景に、成長してゆく姿が描かれている。

15歳の少年コぺル君の周りには、実業家の父をもつ裕福な子、予備陸軍大佐の子、貧乏な豆腐屋の子などの友達がいる。
学校では、上級生からのいじめにも遭う。

コぺル君は、お母さんから、自分が赤ん坊の時、乳が足りなくて、毎日ラクトーゲンを飲んで育ったと聞く。ラクトーゲンはオーストラリア産で、オーストラリアの牛も僕のお母さんかなと思う。そして、粉ミルクが日本にくるまで、牛の世話をする人、乳を絞る人、工場でミルクにする人など多くの人が関わる。

そのミルクが日本に来てから、汽船から荷を下ろす人、薬屋まで運ぶ人、そのほか、あらゆる人まで入れると何千人、何万人か知れない。たくさんの人が自分とつながっているんだと思う。
さらに、教室で先生の洋服や靴を丁寧に細かく考えてみると、やっぱり同じだと発見。先生の洋服はオーストラリアの羊からはじまっている、と考える。

だから、人間は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっている。彼はこれを「人間分子の関係、網目の法則」としました。と、叔父さんに報告する。

叔父さんは、その「人間分子の関係」というのは、学者たちが「生産関係」と呼んでいるものなんだよ。きみが誰にも教わらないでそれだけのことを発見したのは、立派なことなんだ。と。つづいて、経済学、社会学の必要性をやさしく話す。

「自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることができないでしまう。大きな真理はそういう人の眼には決してうつらないのだ」と、コペル君の叔父さんは、ノートに記す。

「また、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、けっして見落とさないようにしてゆきたまえ。
この点から見てゆくと、大きな顔をして自動車の中に反り返り、素晴らしい邸に住んでいる人々の中に、案外にも、まるで値打ちのない人間の多いことがわかるに違いない。
また、普通世間から見下されている人々の中に、どうして、頭をさげなければならない人の多いことにも、気がついて来るに違いない。」(140頁)

このように、15歳の少年が、世界の歴史のうごき、貧困、いじめ、友情などさまざまな問題に直面し、叔父さんのアドバイスに助けられながら、その疑問をといてゆく。少年少女の人生読本、倫理の書ともいえるものである。

私は、この『君たちはどう生きるか』をコぺル君と同じ15歳のとき、読んだ。
師と仰ぐ人に、いただいた。

そして、冒頭の「ありがたい」「ありがとう」という言葉の根源の意味を深く心に止めた。
本のタイトルも頭の隅に定住して、それは、いつか『君はどう生きるか』に代わっていた。

この書は、1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にかけて新潮社から刊行された『日本少国民文庫』全16巻の最期の巻に収められている。
山本有三編纂で第1回配本は第12巻の山本有三著『心に太陽をもて』だった。
 
1935年は、満州事変のあと、日本の軍部がアジア大陸に侵攻を開始してから4年、日本の軍国主義が強まりつつある時期で、第二次世界大戦への危機がせまっていた。ヒットラーやムッソリーニが政権を取り、時代はファシズム台頭へと進んでいた。

「自由主義の立場にいた山本有三は、そのような中で少年少女に訴える余地はまだ残っているし、悪い時勢の影響から次代を担う少年少女を守りたい、
偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかして伝えておきたいと思った」
 
[荒れ狂うファシズムのもとで、先生はヒューマニズムの精神を守らねばならないと考え、その希望を次の時代にかけたのでした」

『日本小国民文庫』が刊行され『君たちはどう生きるか』が書かれたのは、そういう時代、そういう状況の中でした。と、吉野源三郎氏は岩波文庫1998年版の『君たちはどう生きるか』の中で記している。
その巻は山本有三が執筆の予定だったが、病のため、吉野氏が執筆したという。

刊行されて、8年後に日本は終戦を迎え、その1年後の1946年に初めて私はこの本を読んだ。高校生だった。終戦の年にマーシャル諸島での玉砕で兄を失い、東京の空襲で父が浅草寺で死亡。心の中が空洞のときだった。

そして、67年後の2013年、よく通う新宿の古書店で、この本と再会した。
10代の感動が蘇った。さらに、そのころには読みこめなかった深い意味が、身にしみた。人が残していくものの価値を改めて考えた。

素晴らしい叔父さんの教えに導かれ、コぺル君はその後、どんな人生を生きたのだろう。と想像しながら、名著を残された、吉野源三郎氏(1981年没)に、

「お書きになった内容を、未熟な咀嚼(そしゃく)ではありますが、15歳のときから忘れずにいる、昔の少女がここにも一人おります。ありがたいことでございます」と、心であいさつをした。

*『君たちはどう生きるか』
1937年8月新潮社刊 『日本小国民文庫』山本有三編纂 
全16巻の最終巻 吉野源三郎著 
1982年岩波文庫で刊行
                            (2013/07/18)
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