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プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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駅弁彩見 8 横川駅 峠の釜めし

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。


4446横川1305 



今や、全国区ともいえる「峠の釜めし」は、発売から55年。
本年3月現在で、累計販売個数1億5千万個を突破。
横川駅開業と歩みをともに、創業72年のとき
「高見澤みねじ」という女性社長の、まごころ の創案が
実をむすんだ。良いものは変えないのが老舗の誇り。
創業128年、横川おぎのやの 味



駅弁彩見 8 横川駅 峠の釜めし 1000円


信越本線 横川駅に「峠の釜めし」が誕生したのは、1957(昭和32)年11月1日です。
太平洋戦争の終結から12年。コカ・コーラが日本にも上陸した年です。

益子焼の容器の蓋を開けると、つるりとしたウズラの玉子が目に飛び込んできます。
それから、クリの甘露煮。無漂白、無着色で、クリ本来のホコッとした味わい。

特別柔らかくなく、ごく自然に歯切れのよい若鶏は、伝来のタレで仕上げてあります。
調理人が、包丁で一本一本、ささがきしたゴボウ煮。
薄口醤油で、関西風味付けのタケノコ煮もあります。

原木栽培の干し椎茸を毎日水で戻す、肉厚の椎茸煮は、濃い目の味付けで、2個も。
グリーンピースの緑と紅ショウガが彩を添えます。
紅ショウガは、紫芋の色素で色付けしてあります。

そして、デザート代わりの、大きなアンズが程よい甘味です。

釜型容器入りのお新香は、細かく刻んだキュウリ、ゴボウ、小ナスと小梅、ワサビ漬の5種。お年を重ねた方にも食べいいように、配慮されています。

ご飯は利尻昆布とダシ、醤油の炊き込みご飯。米は新潟コシヒカリ。霧積温泉入口そばにある、おぎのや自前の精米所で、玄米から仕入れて、炊く1日前に精米します。
底の深い容器にたっぷりのご飯。

上のおかずを酒肴に、ご飯はお新香だけでもいただけます。

お新香をふくめ10種のおかずは、押しつけがましさが一つもない、自然のやさしい味。いつの間にか食べ終えてしまう、こころこもる、おふくろの味。

私の1回目の現地取材が、26年前の1987(昭和62)年。味は変わっておりません。

駅弁だけではない、百年を超える世に聞こえた老舗の誇り、なのかもしれません。

●売店 おぎのや本店、横川駅売店、おぎのや横川・諏訪・
    佐久・長野店。
    横川SA店上下線、軽井沢駅、軽井沢インター店、
    おぎのや富岡店、
    安中榛名駅。東京駅(駅弁祭・踊)大宮駅、
    諏訪湖SA上り線ほか
●予約可・取寄せ不可
●荻野屋本店 TEL 027-395-2311(代表)




●創業128年 横川駅 荻野屋の歴史


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おぎのや本店風景



釜めしコーナー 誕生切り抜き 
昭和30年代の横川駅ホームで




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かつての横川駅ホーム販売風景


1885(明治18)年10月15日 官設鉄道により高崎駅―当駅間開業に伴い、開業
                            横川駅開業
1885(明治18)年10月15日 横川駅にて構内営業開始。     荻野屋創業
駅弁「おむすび」販売開始。
駅弁販売は全国でも宇都宮に次ぐ老舗
1888(明治21)年 当駅前から軽井沢駅まで碓氷馬車鉄道開通
1893(明治26)年4月1日 官設鉄道により当駅―軽井沢駅間開業
            開業当時はアプト式鉄道を採用。碓氷馬車鉄道は
役目を終えて廃止となった
1912(明治45)年5月11日 当駅―軽井沢駅間電化
1937(昭和12)年7月8日  高見澤勝一、2代目社長に就任   創業52年
1946(昭和21)年8月12日 高見澤一重、3代目社長に就任
1947(昭和22)年      さつま芋弁当、コロッケ販売開始
1948(昭和23)年      イカの鉱泉濱焼販売開始
1949(昭和24)年      紅茶(砂糖入手不能にて塩入り)販売開始
1950(昭和25)年      特選米「幕の内弁当」販売開始
1951(昭和26)年5月12日 高見澤みねじ、4代目社長に就任
1957(昭和32)年11月1日 「峠の釜めし」横川駅にて販売開始    創業72年
1958(昭和33)年2月1日  「峠の釜めし」大ヒット。天皇陛下、富山国体へ行幸の          
              折り横川駅にて「峠」の釜めし」積み込みの栄に浴する             
1961(昭和36)年      横浜高島屋駅弁大会に「峠の釜めし」出品
1962(昭和37)年4月20日 国道18号線沿い横川駅南側に「峠の釜めしドライブイン」
             (後のおぎのやドライブイン横川店)開店

1963(昭和38)年7月15日 粘着方式による碓氷新線開業
             アプト式より切替え。完全切替えは同年9月30日
1964(昭和39)年10月29日 有限会社から株式会社に改組
1967(昭和42)年6月    みねじ社長をモデルにしたテレビドラマ「釜めし夫婦」
             (フジテレビ土曜劇場)放映開始
1978(昭和53)年10月1日  株式会社おぎのやドライブイン発足。高見澤忠顕、
社長に就任
1979(昭和54)年3月25日  4代目社長高見澤みねじ、おぎのや会長に就任。
高見澤恭子、5代目社長に就任
1980(昭和55)年7月1日   軽井沢店開店
1983(昭和58)年4月21日 おぎのやドライブイン諏訪インター店開店
        9月17日 会長高見澤みねじ逝去          
1987(昭和62)年4月1日 国鉄分割民営化に伴い東日本旅客鉄道に継承
1993(平成5)年3月27日 上信越自動車道(上り線)横川サービスエリア店開店
1996(平成8)年12月1日
 「峠の釜めし」類計1億個達成
1997(平成9)年10月1日 長野新幹(北陸新幹線)の開業に伴い、当駅―軽井沢駅
間が廃止され、再び終着駅となる
             この年、関東の駅百選に選定される
             長野行き新幹線開通により、高崎―軽井沢間にて
             「峠の釜めし」車内販売(日本レストランエンタプラ
             イズへ販売委託)          創業112年
2004(平成16)11月    アメリカ、カリホルニア州で開催「全国有名駅弁大会
             に参加。海外で初めて「峠の釜めし」を製造販売。
             4日間で2千食を完売

2006(平成18)年 3月9日 「もしもし券売機Kaeruくん」稼働開始。これに
              伴い「みどりの窓口」廃止
        3月21日  自動改札機稼働開始
2008(平成20)年1月末   「峠の釜めし」累計販売個数1億4千4百万個達成
2009(平成21)年3月14日 ICカードSuica使用開始
2009(平成21)年10月   セントラルキッチン 厚生労働大臣賞受賞
2010(平成22)年10月   長野店 厚生労働大臣賞受賞
        12月   セントラルキッチン 群馬県食品自主衛生管理認証
             を受賞

2012(平成24)年2月9日「もしもし券売機Kerukuくん」営業終了
2013(平成25)年2月  「峠の釜めし」誕生55年    
3月
   「峠の釜めし」累計販売個数1億5千万個突破
        5月   現在に至る                  横川駅開業128年
                             荻野屋創業128年

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攻めの養生

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帯津三敬病院名誉院長の帯津良一先生が、JRの広報誌『大人の休日倶楽部ジパング5月号』に興味ある一文を寄せられている。

「養生とは、年齢を重ねたら身体をいたわり、病を未然に防いで天寿を全うする・・。多くの人は、そうイメージするでしょう。しかし、そんな“守りの養生”は、もう古い」

その理由として、
帯津先生の病院では、主にがんの患者さんを対象に、心と体と命を一体ととして人間を全体で診る「ホリスティック医学」の概念により「生・老・病・死」をワンセットとして考えているからだと言われる。

「生を謳歌しながら、老いを自覚し、病と付き合い、人生最高の精神状態で死を迎える・・・。
これからは、それぞれのステージをしっかり生き抜く“攻めの養生”の時代なのです」
と、素晴らしい提言をされている。

「確かに年を取れば体は衰えるが、視野の広さ、観察眼の鋭さなどは、年を経るごとに身に付いていくもの。飛行機が離陸時に加速するように、自分自身を最高の状態にして最期を迎える。そう考えれば老境に向かうほど生命力が高まることになります。

特に50歳を過ぎれば人生を充実させる時期に入り、あるがままの肉体と人格がものをいいます。
統合医療の世界的第一人者であるアンドルー・ワイル博士は、全米ベストセラーとなった著書で、
『深く、優雅に年齢を重ねる“ヘルシーエイジング”こそが大切なのだ』と提唱しています。私も全く同感です。
若く見せようとするのではなく、年を取るのも悪くない。自然体こそ色っぽいと気付くことができれば、鏡を見るのも楽しくなる。それが結果的にアンチエイジングにつながれば言うことはないでしょう。」と、書かれている。

今や、攻めの養生を実践しながら、自分のステージで謳歌している方が増えている。
80歳でヒマラヤ登頂を果たした三浦雄一郎さん、やはり80歳でシェイクスピアの「リア王」に挑戦の渡辺美佐子さん、今年、パリで初公演の蜷川幸雄率いる「さいたまゴールドシアター」(平均年齢74歳)のみなさん。
この方たちは、突然このような実が結んだのではなく、長い自分との地道な努力と闘いがあったはずです。

アンチエイジングは、60歳になって、かつての20代の若々しい肌や体型を望むことではなく、年だから、という後ろ向きの思考を跳ね除けて、積極的にその年齢を認め、泰然と受け入れられる精神力を養う、日々の努力をすることだと思う。

帯津先生の「自然体こそ色っぽいと気付くこと」は、本当は、たいへんです。

人が自分としっかり向き合うことを意味し、レンブラントのように、百点もの自画像が描けること。描こうとすること。でも、それができると、日本にも、「おとなの自画像をもつ文化」が、ごく普通になるかもしれません。

そのためには、心を含めあらゆる部分の手入れを怠らないこと。そのための健康であり、美容であって、それが目的になると、矢印の方向がちがうのではないか。

きれいになるのは簡単ですが、美しくなるのは、生まれてからの与えられた時間の過ごし方が影響するので、買いたいものが自動販売機から出てくるようにはいきません。

年を経ないと、見えないものがたくさんあるので、年を重ねる楽しさは、若いときには想像もできない世界が広がっていると思うと、あらためて、生が貴重だと感じる。

若く見せようとするのではなく、攻めの養生で、その年齢を誇りに思えるような自身の生き方を持つことこそ、アンチエイジングだと考えています。
                              (2013・5・31)

駅弁彩見 7 宇都宮駅 とちぎ霧降高原牛めし

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
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1305宇都宮


宇都宮駅は、駅弁発祥の地。
1885(明治18)年に上野~宇都宮間の鉄道開通時に
初めて売りだされたといわれている。
駅弁の歴史も128年を迎えた。

その宇都宮駅自慢の逸品。
栃木自慢のひとつ、とちぎ霧降高原牛のモモと肩、
バラ肉3種の味を混合して、ソフトで微妙なうまさを工夫。
創業120年、松廼家の人気駅弁



駅弁彩見 7 宇都宮駅 とちぎ霧降高原牛めし 1000円


日光市北方、女峰山(にょほうさん)東山麓に広がる霧降高原。6月下旬から7月中旬にかけて、黄色いニッコウキスゲが人々を楽しませてくれます。

その霧降高原で育っ牛は、遺伝子組み換えなしのトウモロコシや国産米の配合飼料で飼育する、全農とちぎオリジナルブランドの交雑種牛です。

この牛のモモ肉と肩肉、バラ肉の3種を混ぜ合わせて、まず、油で焼きます。焼くことで肉のうま味を閉じ込めます。使った油は捨てて、特製のタレで赤い部分が残らぬよう煮ます。

肉の3種の部位を混ぜてあるので、ちょっと、コリッとした食感なども味わえ、同じ牛めしでも個性的です。

たっぷりの白いご飯は、直前に精米した北筑波産のコシヒカリ。かすかな甘みと弾力、冷めてもおいしいのが特徴。

栃木名産日光湯波は、平たい京都湯葉に対し、二つ折りにして巻き上げるので、厚みがあるのが特徴。弱火でゆっくり煮詰める薄味仕上げです。

ほか、栃木名産のかんぴょう煮や小ナスの漬物がほどよい箸休めです。

駅弁には数多の「牛めし」があります。

味は、ちょっとキザですが、
愛情と誠意がこめられた、結果だと思います。
このお弁当にもそれが感じられます。

●売店 宇都宮駅 大宮駅 東京駅「駅弁祭」
●予約可 取寄せ不可
●松廼家 TEL028-634-2426



創業120年 宇都宮駅 松廼家(まつのや)の歴史


宇都宮駅松廼家売店
宇都宮駅の松廼家売店


1970年ころのスタッフ
1970年ころのスタッフ


1998年4月駅弁の日に施設訪問
1998年4月駅弁の日に施設訪問


2001年6月TBSはなまるマーケット出演
2001年6月TBSはなまるマーケット出演の斎藤社長



1885(明治18)年7月16日 日本鉄道第二区線の駅として開業。     宇都宮駅開業
            第二区線の終着駅となる
1886(明治19)年6月  利根川橋梁完成、上野~宇都宮が全通
       10月1日 日本鉄道第二区線として宇都宮駅・那須駅(現西那須野駅)間を延
            伸
1890(明治23)年6月1日 現在の日光線にあたる路線が、日本鉄道により
            今市駅まで開通(のち日光まで延伸)
1893(明治26)年1月9日 初代 斎藤智則 日本鉄道(株)より構内営業を許可される
                                  松廼家創業
1902(明治35)年4月1日 2代目の駅舎(2階建て)に改築          2代目駅舎
1906(明治39)年11月1日 日本鉄道が国有化される
1909(明治42)年10月12日 線路名称が制定され、当駅を通る路線が東北本線
             および日光線と命名される
1910(明治43)年10月15日 建設中の大日本製粉宇都宮工場を日清製粉が買収、
             宇都宮駅鉄道引込線使用契約締結
1919(大正8)年      弘済会卸としてアイスクリームの製造販売を許可される
1925(大正14)年12月27日 駅舎の改築工事着工            駅開業40年
1933(昭8)年       鉄道弘済会と協定成立。
             創業当初より販売の雑貨・飲料を弘済会に譲渡
             二代目 斎藤清一郎就任

1942(昭和17)年3月    三代目 斎藤スイ就任           創業49年
1945(昭和20)年7月12日 宇都宮大空襲により2代目駅舎が焼失
1946(昭和21)年3月10日 駅舎が木造1階建て、スレート葺きバラック建築で復旧。
             3代目駅舎                3代目駅舎
1954(昭和29)年12月   個人営業を有限会社に改組。資本金50万円  
1955(昭和30)~1970(昭和45)年 二つ折り弁当70~150円、とりめし100円~250円、
             すし100~150円、湯茶20円。弁当の種類も多くなり」
             価格変更承認も頻繁に。
             牛乳も22円~33円となりビン返し7円~10円返金

1958(昭和33)年2月27日 4代目駅舎落成。3月1日に供用開始       4代目駅舎
        3月7日  駅舎2階に駅デパートが開業
1974(昭和49)年11月1日 新幹線工事のための5代目駅舎(仮駅舎)供用開始。
             駅ビル「ラミア」を併設
1974(昭和49)年     四代目 斎藤博就任
1976(昭和51)年     松廼家ビル竣工。レストラン営業開始
1980(昭和55)年6月10日 現駅舎完成、6代目駅舎となる        駅開業95年
        8月1日  駅東側地区の宅地化を受け、東西自由通路開通
1982(昭和57)年6月23日 東北新幹線が開業、同線の駅となる
1983(昭和58)年     玄米弁当発売。健康食ブームの時代
1984(昭和59)年     厚生大臣賞受賞
1987(昭和62)年7月   資本金1000万円に増資

1987(昭和62)年4月1日 国鉄分割民営化によりJR東日本とJR貨物が継承
       12月   駅ビル「パセオ」開業
1993(平成5)年      日本鉄道構内営業中央会より創業100年の表彰
             商工会議所より同じく表彰
             加熱容器使用の弁当始める
1994(平成6)年11月   五代目 齋藤克彦就任

1994(平成6)年2月    在来線改札に自動改札機導入
1996(平成8)年11月3   日清製粉宇都宮工場が操業停止。
             この頃貨物列車の発着がなくなる
1999(平成11)年1月    六代目 齋藤久美子就任         創業106年
2000(平成12)年     健康食ブーム再来か、玄米弁当リニューアル
            玄気いなり、玄気亭、うわさの弁当、古代米入り、
             芭蕉気分など古代米、雑穀、玄米使用の弁当が
            広く受け入れられ注文数増える

2001(平成13)年11月18日 Suica導入
2001(平成13)年6月    宇都宮東武百貨店に出店
2003(平成15)年~現在   京王百貨店駅弁大会参加

2006(平成18)年7月8日  宇都宮線ノ15両編成列車の運行が当駅まで延長。
              従来は小金井駅までの運行であった
2008(平成20)年11月1日 東口新駅前広場オープン
2009(平成21)年4月    鬼怒川温泉駅で販売開始   
2011(平成23)年9月20日  餃子弁当800円発売
2013(平成25)年2月20~3月5日 東京駅「祭」実演販売
             とちぎ霧降高原牛めし
2013(平成25)年5月    現在に至る
            宇都宮駅開業128年
                              松廼家創業120年

犬も歩けば

21305エッセー



今年、ゴールデンウイークのある一日、「桂ゆき―ある寓話―」が目的で、東京都現代美術館に出掛けた。生誕百年の記念展覧会である。

そこには、日本画から油彩へ、早くからコルクや布、紙を貼りつけるコラージュの手法を考え、男まさり、エネルギッシュと評された画家の膨大な作品群があった。

戦後の代表作、油彩とコラージュによる「欲張り婆さん」「ゴンべとカラス」に始めて、じっくり対面した。かつて観たいと思って果たせなかった作品だった。

日用品の道具やバッグに囲まれた欲張り婆さんが、なんとも愛らしく、ユーモアをまじえ、人間の本質をつく。「ゴンべとカラス」では、勤勉なゴンべの仕事を邪魔するカラスの側に立った解釈を示して、人間の固定観念をゆさぶる。

私にとって圧巻だったのは、会場の終わりに近いスペース、囲われた部屋に集められた赤の世界だった。女性の着物の裏地に使う紅絹(もみ)で包まれた、角の生えた釜や道具を中央に、「生命の誕生」と「結婚」を膨大な数の紅絹に包んだ粒とも、点ともいえる物で表現している壁面があった。自画像も紅絹に彩られていた。1985年(72歳)の個展で発表されたというこの画家晩年の作品。

一種異様。じっと佇んでいると、桂ゆきという人間が「これがわたしの世界なんだ」と、語りかけているようだ。なんとも、不思議な力を感じて30分ほどじっと止まっていた。ただ、じっとしていたとしかいえない。

彼女の生きた時代は、男の価値観がまかり通る偏見、抑圧との闘いであったという。桂ゆきは、1913(大正2)年に帝大で冶金学教授の父を持って、東京本郷に生まれた。女学生のころ学んだ油絵の先生に「女は花や人形を描いていればいい」と言われ、「そんなもの描きたくもない、泰西名画の美にも反発した」

人は否応なく、時代の抑圧にさらされる。ひとりの画家が10代に反発した精神を生涯貫いた。自ら望んだ、画家としての思想を絵画に託して表現し、60年にわたる創作活動を展開、戦前と戦後をつなぐ女性芸術家のパイオニアとして命を全うした。
膨大な作品群が画家の死後も、私を含め、多くの人がその作品から感動と力を受けている。今さら、芸術イコール人間だ、と思う。

帰途、もと来た深川資料館通りの左側を駅へ歩く。と、昨年はなかった小さな古本屋があった。店先の木箱に100円の立札。ふと目にとまった岡本太郎著『自分の中に毒を持て』(青春文庫2011年第41刷)を購入。

読後、岡本太郎をまったく知らなかったと、知った。そして、桂ゆきと岡本太郎の共通性に気付く。

1同年代であること 桂ゆきは、1913(大正2)年~1991(平成)年
          岡本太郎は、1911(明治44)年~1996(平成8)年
2反逆精神に富んでいること 岡本太郎は 当時の先生、教育制度、その周辺の条件に抵抗したため、小学校一年生で4つも学校を変えた。
3 若いころに芽生えた自己肯定の筋を貫いて、生涯変えなかった。
4 あらゆるものから自由な態度を貫いた数々の仕事。 

『自分の中に毒を持て』の著者は、父岡本一平、母かの子にあまりかまわれなかったが、子どもの時から、ひとりの人間として扱われた。18歳でフランスへ。パリのカフェでマックス・エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、写真家のブラッサイ、ソルボンヌの俊鋭な哲学徒だったアトランなどとは、毎日顔を合わせる仲間で、カンディンスキー、モンドリアン、ドローネと芸術論をたたかわせた。
一生を決定したともいえるジョルジュ・バタイユ(フランスの哲学者。思想家、作家-註塩入)との出会いもカフェだったという。

30歳でフランスから帰国。中国戦線へ出征。過酷な軍隊経験。私の古い記憶だが、敗戦後、帰国した時、お金がわずかしかなかった。そのわずかの全部で花を買った。という、エピソードを、ふと思い出す。

読みすすむにつれ書の内容は、怠惰な自分に突き刺さる。

何でもないことに筋を通すことの方が、カッコいい冒険よりもはるかにむずかしいし、怖ろしい遊びなんだ。

捨てれば捨てるほど、命は分厚く、純粋にふくらんでくる。

自分自身の最大の敵は他人ではなく、自分自身だ。自分を取り巻く状況に甘えて自分をごまかしてしまう。
自分に対して真心をつくすというのは、自分に厳しく、残酷に挑むことだ。

人間が一番辛い思いをしているのは、“現在”なんだ。ベストを尽くさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるために“いずれ”とか“懐古趣味”になるんだな。懐古趣味は現実逃避だ。

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きること。

「エネルギーがありますね」といわれて、
エネルギーがあるから、できるんじゃなくて、なにかをやろうと決意するから、意志もエネルギーもふきだしてくる。なにも行動しないでいて、意志なんてものありゃしない。

プライドというのは、絶対感(一切他から制限・拘束されないこと—註塩入)だと思う。自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任を持って堂々と押し出す。 それがプライドだ。

ところがまるで反対のことを考えている人間が多い。他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分をどう見ているかなんてことを気にしていたら絶対的な自分というものはなくなってしまう。
大切なのは、他に対してプライドをもつことではなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ。
以上、内容のほんの一部です。

書は、著者と向き合うこと。

この本は、1993年、岡本太郎が亡くなる3年前に刊行。18年後の2011年に第41刷とある。40回も増刷されているのはすごい。「若い人にも、自分の中に毒を持ってほしい」という著者の願いが生かされたのかもしれない。

犬も歩けば「宝物」に、の、ある1日でした。                      
                                (2013・5・15)

駅弁彩見 6 吉野口駅 きぬ巻時雨壽司

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。


吉野口13042



吉野口は、奈良県で唯一、公式駅弁販売の駅。
長い伝来の調合酢で仕上げた酢飯に、
アサリの時雨煮と、おぼろ昆布で包んだ押し寿司。
創業112年、さっぱりして 滋味の駅弁



駅弁彩見 6 吉野口駅 きぬ巻時雨壽司 460円


吉野口駅は、JR和歌山線と近鉄吉野線との乗り換え駅。
かつては、吉野杉の集散地として栄えました。

吉野の山を背に木造平屋の駅舎が立っています。
1896(明治29)年に開業した駅です。

奈良県で唯一の公式駅弁の販売駅でもあります。
この駅で販売している駅弁のひとつが、「きぬ巻時雨壽司」。

発売から約60年.
伝来の合わせ酢で仕上げた、かすかな甘みとツヤのある酢飯。
米は、滋賀県産の日本晴と秋の歌、ヒノヒカリをブレンドしてあります。

この酢飯の中央に、アサリのショウガ風味の時雨煮をおきます。
この時雨煮は、小豆島の醤油醸造元製で、ご飯にくるめて味わえるよう、炊き上がり11ミリほどの極小のアサリを使っています。

箱型で形を整えた酢飯を、おぼろ昆布ですばやく包みます。
おぼろ昆布は、昆布を蒸してカンナで薄く削ったもので、風味のよい北海道産の真昆布です。

きぬ巻は、おぼろ昆布の色彩が正倉院御物の絹布のようだとの発想から命名。

ほのかに甘い酢飯にアサリの時雨煮、おぼろ昆布のうま味が一体のいいお寿司です。しっかりした押しずしで、熟年を大分過ぎた私には5個で十分なほど。

『JTB時刻表 駅弁細見』で、1997(平成9)年に始めて現地取材したときから、味、価格、掛け紙とも、なにも変わっておりません。

変えない素晴らしさもありますね。

●売店 吉野口駅2・3番線に。改札を出てまっすぐ徒歩2  
            分の柳屋本店でも。
    予約、取り寄せ可(連絡9:00~16:00)
●柳屋 TEL 0745-67-1711




●創業112年 吉野口駅 柳屋の歴史


3柳屋歴史 
1960年代のテレビで紹介された柳屋(以下同じ)


1柳屋歴史 



4柳屋歴史 



2柳屋歴史


1896(明治29)年5月10日 南和鉄道(和歌山線の前身の一つ)の終着駅である葛駅
          (現在の近鉄葛駅とは別)として開業  吉野口駅の前身 葛駅開業
       10月25日 南和鉄道が葛駅・五条駅・二見駅(のちの川端駅)間を
           延伸開業。途中駅となる
1903(明治36)年5月15日 吉野口駅に改称
1904(明治37)年12月9日 南和鉄道の路線を関西鉄道が承継。同社の駅となる
1907(明治40)年10月1日 関西鉄道が鉄道国有法により国有化。国有鉄道の駅となる
1909(明治42)年10月12日 路線名勝が制定され、和歌山線の所属となる

1911(明治44)年4月  島田昌彦が日本国有鉄道の許可を受け、
           和歌山線吉野口駅にて、柳屋商店開業。
           吉野名産、鮎ずしの調製販売を始める
         柳屋創業
1912(大正元)年10月25日 吉野軽便鉄道(現在の近鉄吉野線の前身)が当駅 
             -吉野駅(現在の六田駅)間で開業。
             同社と国有鉄道の共同駅となる
1913(大正2)年5月31日  吉野軽便鉄道が吉野鉄道に社名変更
1923(大正12)年12月5日 吉野鉄道が橿原神宮前駅(初代)まで延伸。
            同線においても途中駅となる
1929(昭和4)年8月1日  大阪電気軌道が吉野鉄道を合併。
            国有鉄道と大軌(吉野線)の駅となる
1941(昭和16)年3月15日 大阪電気軌道と参宮急行電鉄が合併、関西急行鉄道が発足。
            同社と国有鉄道の駅となる
1944(昭和19)年6月1日  戦時合併により関西急行鉄道が近畿日本鉄道に改組。
             同社と国有鉄道の駅となる
1950(昭和25)年4月   島田大和彦が柳屋商店を継ぐ            創業39年

1955~60(昭和30)年代  大阪なんば高島屋で全国有名駅弁大会開催。鮎ずし、
            きぬ巻時雨寿司を販売

1965(昭和40)年代    全国の百貨店で有名駅弁大会開催が広まり、鮎寿司、  
            柿の葉寿司を販売、好評を受ける

1973(昭和48)年4月4日 柳屋商店を株式会社柳屋に法人化。
            代表取締役社長に島田大和彦が就任
        創業62年
1987(昭和62)年4月1日 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道と近鉄の合同駅となる
1989(平成元)年2月    株式会社キヨスク(現株式会社JR西日本デイリーサービス
            ネット)に口座を得て、天王寺駅売店にて販売開始、営業中
       7月    代表取締役社長に島田和重が就任。現在に至る
  創業78年
1989(平成元)年5月18日 近鉄の特急停車駅になる
1990(平成2)年7月    橿原市新堂町に坊城店開設。現在は大和高田市今里に移転、
             高田店として営業中

2007(平成19)年4月1日 近鉄吉野線でICカードPiTaPa供用開始
2013(平成25)年4月                       吉野口駅開業117年
                                 柳屋創業112年



ハンカチーフ

ハンカチーフ



ハンカチーフを持つ人が少なくなった。

ティッシュぺーパーの出現のせいだろうか。
しかし、ティッシュとハンカチーフでは格がちがう。

外出の際のハンカチーフは欠かせない。
高価なスーツを身につけた男性が、お絞りで顔を拭いたり、ましてや、口辺をぬぐうのはやめたい。百年の恋も一瞬にして冷める。

それだけにアイロンのかかった折り目正しいハンカチを持っている人は、すがすがしく、魅力がある。服装はその人の言葉。人間、外側も大事である。

ところで、ハンカチーフはいつごろから使われたのか、と思って調べたら、紀元前3000年にはエジプトの王女が使っていたという麻の端切れが、ベルギーのブリュッセル博物館に保存されているという。

その後、いろいろな形をしていたハンカチーフの中から、今の正方形にまとめたのは、18世紀末、時のファッションリーダー、フランス王妃アントワネット。

彼女の誕生日にちなみ、11月3日はハンカチーフの日。気の遠くなるような歴史である。そして、今や、日本は世界でも有数のハンカチーフ市場なのだそうである。

その歴史に敬意を表して、きちんとした場所では、麻や上質な綿の白いものを持ちたいと思っている。とりわけ和服の場合は、真っ白い麻か綿が、衣装の雰囲気をそこなわず、美しい。

会社勤めのころ、日曜日に1週間分をまとめて洗濯し、アイロンがけをした。子ども時代は、アイロンはあったが、洗濯機のない時代で、手洗いしてガラス窓に貼り付けると、ピーンとなるので、ピュッとはがして使っていた。

日ごろ、気になっていることがある。
テレビの出演者で、感極まって涙を流し、女性はマスカラを気にして、指先で目尻を拭ったり、鼻水の始末に困ったりしているのをよく見かける。

男性の服はポケットが多いので、ハンカチーフの1枚くらい持てるはずである。和服なら袖がある。女性の服は上等になるほど、ポケットが無いので困るが、
ごく小さなポーチのようなものに入れて、食事の時のように、それとなく椅子の背にでも置いてはいかがだろうか。

問題は立ち姿のときである。まあ、その時は、我慢して泣かない努力、鼻水を出さない意志をもって出演するようにしては。

不思議なことに、さっと、ハンカチーフの出てくる人はまれである。ほとんど持っていない。出演内容によって、必要になりそうか否かは、想定できるのではないか。それなりの人びとが、そのくらいの用意をなぜしないのか、と思う。

その時、とっさに、真っ白な(じゃなくてもいい)、折り目正しいハンカチーフがでてきたら、その持ち主は、いっそう素敵に見えて好感度も上がるでしょう。

エレガントな女優さんが、対談中、汕頭(スワトウ)の素敵なハンカチーフでさりげなく涙をぬぐう、なんて、絵になりますね。

子どもも見ていて、いつか、それを真似るだろう、と、思う。

ハンカチーフでは、ちょっとした思い出がある。

ある年の4月、お世話になった、ある二人の女性にハンカチーフを贈りたい、と思った。

和服をお召しの機会の多い方たちで、それぞれのイニシヤル入りの白いハンカチーフが欲しかった。よく行くデパートをみたが、気に入ったものがない。銀座のデパートでやっと見つけた。

礼状を添えて、そのハンカチーフを贈った二人の女性からは、その後、着いたとも、着かないとも、なんの連絡もなかった。

翌年の1月、一人の女性からの年賀状に、礼の文言が簡単に書き添えてあった。7カ月後のことだった。
そのお二人の女性というのは、2年間、通学した「礼法」の学校の先生とその助手で、年賀状が来たのは、助手の先生のほうであった。

私もやりがちな、と思いながら感じた、人の、ふとした隙間でした。 (2013・5・1)
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