プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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駅弁彩見 4 秋田駅 和牛こまち弁当・ 5 スーパーこまちランチ

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。 


秋田1303B 


本年3月16日、「秋田新幹線E6系スーパーこまち」が運行された。
これにちなんで秋田駅関根屋では、3種の新作駅弁を販売。
そのうちの「和牛こまち」
「スーパーこまちランチ」の2種をご紹介



駅弁彩見 4 秋田駅 和牛こまち弁当 1000円

秋田県産「あきたこまち」の白いご飯に、和牛焼肉がしきつめられています。

ご飯と混ぜ合わせながらいただけるように、秋田県産の和牛を薄くスライスして、調味料に漬け込んでから、オニオンソースで焼いてあります。

秋田和牛の脂身の甘さが、この焼肉の旨さをひきだしています。

トッピングのパプリカが、味のミスマッチと思いきや、意外に焼肉とよく合っていて、ハジカミがさわやかさを添えます。

付け合せには、トマトソースのペンネ(ペン先状のパスタ)のサラダ、玉子焼,かまぼこ、いぶりがっこのニンジンなど。

焼肉の上のパプリカとハジカミは「秋田竿燈」、ペンネは「なまはげの角」、いぶりがっこのニンジンは「日本海の夕陽」をイメージ。

これは、パッケージにも描かれています。駅弁だけではありませんが、容器はいろいろな言葉をもっています。

秋田新幹線の中で、このお弁当を開けたら、この駅弁は、こんなイメージで作ったのだと、ちょっと思ってくださったらうれしいですね。

●売店  秋田駅構内各売店 東京駅「駅弁祭」
●関根屋 TEL 018-833-6461


秋田1303c


駅弁彩見 5 秋田駅 スーパーこまちランチ 1200円

秋田新幹線「E6系スーパーこまち」は、イメージカラーの「ジャパンレッド」が、美しい。その模型容器に入ったお弁当。

鶏そぼろをのせたご飯。エビフライ、チキンナゲット、オムレツ、ウインナ、ハンバーグ、焼きそば。デザートにゼリー。

みんな、子どもが、あるいは子どもだったとき、よく食べた、大好きなもの。
一見、お子様ランチですが、小食の大人の方におすすめです。幼少のころを思い出させてくれます。

そして結構、満足感があります。容器は外函も大切にしてください。記念品です。


●売店  秋田駅構内各売店  東京駅「駅弁祭」
●関根屋 TEL 018-833-6461



●創業111年 秋田駅 関根屋の歴史

1921(大正10)年関根屋旅館は洋風建築改築 
1921(大正10)年 木造から洋風建築に改築

関根屋昔の掛け紙
昔の掛け紙


1902(明治35)年10月21日 秋田駅開業。当時の所在地は南秋田郡
広山田村楢山字長沼                   秋田駅開業

1902(明治35)年 関根屋旅館創業。鉄道構内物品販売兼業で、
旅館業のほか弁当類を製造、駅構内で販売。        関根屋創業          
和風二階建客間十八。宿料六十銭八十銭一円。
兼構内すし雑貨販売。(明治44年旅館要録)


1905(明治38)年8月1日 駅所在地と周辺の鉄道用地が秋田市へ編入される

1921(大正10)年 関根屋旅館、洋風建築に改築        創業19年

1955(昭和30)年9月1日 駅構内に青森鉄道郵便局秋田分局が開局

1961(昭和36)年9月1日 「秋田民衆駅」として駅舎改築

1961(昭和36)年  秋田ステーションデパートオープン。  創業59年
         とんかつ・天ぷらの関根屋出店

1983(昭和58)年 本店を現住所の東通へ移転。

1987(昭和62)年4月1日 国鉄分割民営化により、JR東日本が継承

1997(平成9)年3月16日 現駅舎に改築
       3月22日 秋田新幹線開業。
駅弁「日本海はたはたすめし」発売

1999(平成11)年1月19日 新幹線改札口に自動改札機導入

2000(平成12)年7月29日 秋田駅東西連絡自由通路「ぽぽろーど」開通

2002(平成14)年 東北の駅百選に選定される
秋田駅ビル、トピコに関根屋駅弁販売店開業          創業100年
2007(平成19)年7月1日 北改札口をメトロポリタン口、南改札口をトピコ口
            に改称
2013(平成25)年3月16日 秋田新幹線「ス-パーこまち」デビュー
                            秋田駅開業111年

2013(平成25)年3月 「スーパーこまち」運行記念の「和牛こまち弁当」
「E6系スーパーこまちランチ」「山菜こまち弁当」
3種の新駅弁発売
                    関根屋創業111年
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なにを恥と思うか

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1961(昭和36)年に平和団体の案内で訪れた長崎で、被爆による後遺症や差別と闘い、苦難のなかで生きる人々に出会い、

「なにも知らなかったことを恥じ」た人がいる。

「その後も長崎を訪ねたが、結論が出ない。そして、次の年も、また次の年も」

2012(平成24)年12月、82歳で逝去した写真家の東松照明さん。

上半身に大やけどを負った男性、顔の半分にケロイドが残る女性----。

長崎市の長崎原爆資料館で開かれている追悼展で、半世紀にわたって撮り続けた65点の存在感に圧倒された。
原爆の悲惨を告発する鋭さとともに、被写体への深い愛情がのぞいた。

心と心の交流を通じて写真家と被写体の関係を超えた間柄になった。それは目に見える傷ではなく、その人の内面をとり続けたからだろう。

15歳の時、名古屋で終戦を迎えた東松さんの原風景は、廃墟だった。

復興した長崎の街に目を凝らすと、繁栄の裏に原爆の悲惨が見えたという。

ライフワークとした沖縄では、自然への畏敬の念と他者への思いやりの精神が息づく人々の暮らしにかつての日本を見た。共通するのは、目に見えないものを凝視するまなざしだ。

ともに「終わらない戦後」を抱える長崎と沖縄。

「忘れられないこと、決して忘れてはならないことを伝え続ける」。
東松さんが残した言葉をかみしめている。
(以上、2013年4月10日読売新聞 西部社会部 鬼東信安氏:一部割愛-塩入)

カメラのレンズメーカー宣伝部にいたころ、東松照明さんには2~3回仕事でお会いしている。
フワッと、人を包み込むようなあたたかさを感じる方で、人間の内面が撮れる写真家だと思った。

折々に発表される作品に、東松さんの厳しさとやさしさがうかがえ、「東松さん、やってるな」と、生意気にも思っていた。

文は人、写真も人。

2010年7月、満62歳で早逝した、作家、劇作家など多彩な仕事を残した、
つかこうへい さんは、

「文化とは、なにを「恥」と思うか。

そして人がその「恥」とどうしようもなく出会ってしまったとき、どうぶつかり生きていくかということなのではないか、と常々思っている」。と書いている。

写真家、東松照明さんは、自分の恥を、よりどころの写真を通して追及しようとした。せざるをえなかった。

だれかのためより、やむにやまれぬ、人としての自然な気持ちだったのではないか。

その感性が、宝物なのだと思う。
                        (2013・4・16)




駅弁彩見 3 福山駅 ザ・駅弁春 志津ごのみ

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Scan0019切り抜き

JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。 


福山13036明るい



瀬戸内の真鯛、尾道老舗のかまぼこ、
さりげなく、上等な味を盛った、
満足の逸品。
創業123年、浜吉 春の駅弁です



駅弁彩見 3 福山駅 ザ・駅弁春 志津ごのみ 1260円
(価格が変更になりました)
(4月4~15日の限定販売)


福山駅は、福山城三の丸南側を東西に横断している、珍しい駅です。ホームからお城が見えます。

春のお弁当をご紹介します。

手前味噌で恐縮ですが、著書『駅弁名鑑800』(講談社)刊行記念として、
2007年3月から、春の駅弁として発売されました。

駅弁会社「浜吉」が著者、塩入の好みに合わせて特別調製した駅弁です。

瀬戸内海は真鯛の好漁場で、その生き鯛の塩焼き、スイーツのような淡い甘味のダシ巻玉子。大きいです。

シコシコ、口中で跳ね返るような歯ざわり、串に刺したかまぼこは、
尾道の「桂馬」蒲鉾商店製。
グチ、ハモ、エソの魚肉にイカを加えた老舗こだわりの味。十数年前からの大好物です。

ほかに、薄味仕上げの竹の子煮、牛肉とゴボウのうま煮が全体の味を引き締めます。

広島ブランド米の白いご飯の上に、和歌山「南高梅」の梅干しと、酒どころ広島の奈良漬がのっています。

二切れの奈良漬の味わいを含め、それぞれの味が上等です。

たった一切れのお新香でも、味のよくないものは盛りたくないという、私の駅弁に対する考えを、受け入れた「志津ごのみ」。

日本食のよさがわかるお弁当です。

さくらの、山陽路の旅で味わってみてください。


●売店 福山駅 三原駅 (確実に入手するには予約を)
●浜吉 0848-62-2121



●創業123年 福山駅 浜吉(はまきち)の歴史

福山駅2011 
福山駅 浜吉売店



浜吉昭和30年
1955(昭和30)年ころの浜吉社屋

浜吉作業写真  


明治初期 尾道海岸通りに旅館濱吉楼として創業

1890(明治23)年 浜吉商店として創業             浜吉創業
        山陽鉄道糸崎駅(現JR糸崎駅)構内営業開始

1891(明治24)年 山陽鉄道の駅として、福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられた             福山駅開業
1893(明治26)年4月21日 広島寄りに300m移設

1906(明治39)年12月1日 山陽鉄道国有化により国有鉄道の駅となる

1909(明治42)年10月 線路名称制定。山陽本線の所属となる

1913(大正2)年11月17日 鞆鉄道線が開業

1914(大正3)年7月21日 両備軽便鉄道両備福山駅―府中町駅間が開通

昭和初期~中期   駅弁「鯛の浜焼」を特急かもめ・都ホテルで販売

1933(昭和8)年9月1日  両備鉄道線が国有化。国有鉄道福塩線となる

1940(昭和15)年  「軍弁」販売               創業50年

1950(昭和25)年  山陽本線三原駅舎改築。三原駅構内営業開始

1953(昭和28)年  「元祖 珍辨たこめし」販売開始     創業60年

1954(昭和29)年3月1日 鞆鉄道線が廃止

1955(昭和30)年 個人商店を株式会社へ組織化 「松茸めし」販売開始


1975(昭和50)年3月10日 山陽新幹線が岡山駅~博多駅間延伸により
             福山駅乗り入れ
1976(昭和51)年  駅弁 幕の内「御弁当」販売開始

1978(昭和53)年  駅弁 「浮城」販売開始 

1979(昭和54)年  駅弁 「やっさ弁当(現 瀬戸の小島)」販売開始

1980(昭和56)年  駅弁 「広島の味覚 かきめし」販売開始


1987(昭和62)年4月1日 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる

1989(平成元)年 三原駅高架化  新尾道駅にて駅弁販売開始

1990(平成2)年 鯛の浜焼き風「鞆ノ浦 鯛の浜焼弁当」販売開始
創業100年

1992(平成4)年 尾道駅にて駅弁販売開始

1993(平成5)年 広島空港ビル内営業開始
        航空機機内食、乗務員食製造開始

1996(平成8)年 山陽道S.A弁当販売開始

2002(平成14)年 空弁「広島空港名物 あなごめし」販売開始

2003(平成15)年 福山駅営業開始。 「福山ばら寿司」「松茸すきやき弁当」
        「厳選 松茸すきやき弁当」「福山双六弁当」販売開始

2003(平成15)年3月1日 より三原市の浜吉が駅弁販売を始める
       10月1日 「のぞみ」停車駅となる

2005(平成17)年 駅弁「あっぱれ多幸」販売開始

2005(平成17)年2月21日 山陽新幹線改札に自動改札機導入

2007(平成19)年  駅弁「志津ごのみ」販売開始       創業117年

2008(平成20)年3月1日 山陽本線上下線ホームへエレベーター設置 

2008(平成20)年  駅弁「ほっと 広島いいとこどり」
「ほっと 厳選かき釜めし」発売

2010(平成22)年  駅弁「レモン豚丼」発売

2011(平成23)年  駅弁「旬のごはん」発売


2013(平成25)年3月                 福山駅開業122年

2013(平成25)年 駅弁「春彩すきやき弁当」発売     浜吉創業123年


ピーコさん

ピーコ



かつて、テレビでファッションの批評をしていたピーコさんが好きだった。

結構辛口で、人におもねたりしない語り口がこころよかった。

あまり人前に出なくなったと思っていたら、2013年4月1日読売新聞の「これからの人生」欄で近況を知る。

芸能界デビュー後、人気が出て収入が増えるにつれて傲慢になった。
テレビ収録現場では、「なんでこんなに待たなきゃいけないの」とどなりちらし、
タクシーの運転手の対応が気に入らないと現金を投げつけた。

44歳の時、30万人に1人の珍しいメラノーマ(悪性黒色腫)となり、左目の摘出手術を受けた。

義眼を入れた。

1個30万円ほどの義眼は、手術後傷口が変形するため、1年に20~30個変える必要があった。

深い親交のあった永六輔さんが1口1万円の寄付をつのってくれて300万円が集まった。

「私は一人で生きているんじゃないんだ」と気が付いた。

自分の満足だけを求めてきた人生が愚かに思えてきた。

手術から5年間は転移の恐れがあるので、半年に1回全身の検査を受ける必要があった。憂鬱になり元気のない姿に、永さんが歌を習うことを勧めてくれた。

若いころからよく聴いていたシャンソン。
ピアノの先生の指導を受け、人前でも歌い始めた。衣装を担当したシャンソン歌手の石井好子さんに誘われてショーに出演、本格的にステージに立つようになった。

障害者や中途失聴者などの講演会で、目を失った体験や人生を語ることも。

「自分のことよりも、誰かの役に立てる仕事を優先する」ことを貫く。

ファッションの見方も変わった。

背が高く見える着こなしや、やせて見える服装を提案していたが、人は外見を飾るだけでは美しくなれないと考えるようになった。

講演では、「自分のため、という欲を捨てれば、きれいになれるよ」とアドバイスする。

手術を受けた病院には当時、同じ病気の患者がいたが、2年後に亡くなった。

「生きている私には自分の知らない何か役目があるはず。人のためになるような自分の役割を探して生きていきたい」
(以上、読売新聞 野口博文氏。文章は少し略させていただいたカ所がある)

1945年、私には忘れられない終戦の年生まれのピーコさんは、68歳になられた。

人は一生のうちに、数回、「気づき」の機会を与えられる。

そのときを逃すと、また次の人生でやり直しになる。ということを聴いたことがある。

ピーコさんは気づかれた。

しばらく会えなかった知人から、いい人生の途上を歩いている話を聞かされたような、さわやかな気持ちになった。

ピーコさんは、そんな経験をされていたのか、と。 
                              (2013・4・4)
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