プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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戦時の花

戦時の花1303



大正・昭和時代の経済学者、小泉信三氏(1888~1966)は、慶応義塾長も務めた教育家である。

私には、とりわけ、今上天皇の皇太子時代の教育掛りを務められた印象が、深い。

この小泉氏について、
2012(平成24)年10月13日の読売新聞「五郎ワールド」で、橋本五郎氏が「戦時の花」として、素敵なエピソードを紹介している。

昭和20年1月、小泉さんはゲートル姿で、東京三田綱町の自宅から丘を越え、川を渡って六本木まで歩いて花を買いに行った。

買い求めたのは、水仙と、白と淡紅色の花をつけたあらせいとうと、淡紫の小花がむらがり咲くエリカの花束だった。

「戦争のこの危急の段階で妻の誕生日に花屋に花を買いに来たということが、何か攻撃を無視した行為のように思われて、愉快であった。妻は果たして贈り物に驚いた。二人の娘は共に父の行為を賞賛した」

小泉さん56歳、とみ夫人50歳の時だった。---------。

戦後、このエピソードを「戦時の花」として雑誌に書いた小泉さんは昭和41年5月帰らぬ人となった。

ところが、その翌年、夫人の誕生日に、小泉家には水仙とアラセイトウとエリカの花束が届けられた。

皇太子妃美智子さまからだった。
「戦時の花」を読まれ、皇太子さまと相談されて、小泉さんの代役を務められたのだ。(以上、橋本五郎氏)

ひと粒の、高貴な真珠を見せていただいたような、気がしました。       
                                                       (2013・3・26)
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駅弁彩見 ② 一ノ関駅 平泉うにごはん 

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JTB時刻表「駅弁細見」で24年半、時刻表読者、駅弁調製元各位その他多くの皆様にお世話になりました。
「駅弁細見」時代より、ますます多様化・発展しつつある駅弁を、また、皆様にお伝えしたいと、ブログ駅弁を展開いたします。
どうぞ、よろしく応援をお願いいたします。


1一ノ関うにごはん


世界遺産 平泉への旅で
味付けウニとふっくら茶飯の
絶妙な味のコラボ



駅弁彩見 ② 一ノ関駅 平泉うにごはん 1000円

2011年6月に「平泉の文化遺産」がユネスコの世界遺産に登録されました。
その平泉への玄関口、一ノ関駅は、開業が明治23年、123年の歴史ある駅舎。
この駅の名物駅弁が、「平泉うにごはん」です。
ウニは、蒸しウニを醤油、砂糖、みりん、塩の調味料で味付けしてあります。
ご飯は、醤油と酒でふっくらと炊き上げた茶飯。
この茶飯の上に盛るウニは、一粒一粒のウニのあいだに空気を入れるように、ていねいに盛ります。
味のよさは、目に見えないところへの心遣いに、あります。
ウニのほか、イクラやシソ茎ワカメ、ゴボウの醤油漬、錦糸玉子などをつまみながら食べ進む。
途中までいったら、ウニを茶飯にまぜながら食べてみてください。
味付けウニと、味わい深い茶飯が一体となった、上等なうにご飯が味わえます。
ちょっと、家庭で、すぐにはつくれません。
この駅弁の調製元も、明治23年創業, 大正、昭和、平成と、123年間、駅弁をつくり続けています。
その味です。

●売店 一ノ関駅、「東京駅 駅弁祭」大宮、盛岡の各駅
●斎藤松月堂弁当部 TEL: 0191-26-3000


●創業123年 一ノ関駅 斎藤松月堂の歴史

塩入2


明治23年当時 1
明治23年当時

塩入1 

藩政時代から明治初年にかけて「岩井屋」として、タバコ、雑貨などを販売

1890(明治23)年 4月16日 日本鉄道の駅として一ノ関駅開業 創業

1890(明治23)年 一ノ関駅開業に伴い、平泉名産、氷餅や地方名勝絵葉書
         などを販売
1891(明治24)年 松月堂として、銘菓「茄子の甘露煮」を販売、明治天皇に
         献上された
1893(明治26年) 構内初の「そば売店」を開業

1897(明治30)年 4月1日 
 「斎藤松月堂」 の構内営業が許可される 

1906(明治39)年 11月1日 日本鉄道が国有化、国有鉄道駅となる

1909(明治42)年10月 12日 線路名称が制定され、東北本線所属となる   創業19年

1925(大正14)年 7月26日 大船渡線開通

1945(昭和20)年 戦後の一社一事業の統制により菓子業は廃業      創業55年
構内営業「駅弁」仕出しを営む

1963(昭和38)年 有限会社斎藤松月堂設立               創業73年

1967(昭和42)年 7月1日 「みどりの窓口」設置

1982(昭和57)年 6月23日 東北新幹線開業

1987(昭和62)年 4月1日 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道(JR東日本)
             の駅となる
1998(平成10)年8月5日 株式会社斎藤松月堂設立。

2013(平成25)年                        一ノ関駅開業123年    

2013(平成25)年   東京駅 「駅弁 祭」でも販売現在に至る      創業123年

手ごわい エルメス

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第二次世界大戦直前、マレーネ・デートリッヒがエルメス本店を訪れてドレスを注文した。

社長のエミール・モーリスはこの絶世の美女のために鹿革のスエードをあしらったイヴニング・ドレスをこしらえた。

デートリッヒは、一目見るなり「素晴らしいわ」 と溜め息をついたが、九千フランという値段を見て「お値段の方も」と、もう一度、溜め息をついた。

エミールは言った。
「でも、マドモアゼル、このドレスなら二回は着られますよ」

へえ、それでも一回あたり四千五百フランね、などと小ざかしい計算で話題を閉じてはならない。
途端に、あなたの顔が下品に見えてくる。

社長のエミールは、ヨーロッパの社会の、ごく普通のルールを口にしたにすぎない。

以上は、草柳大蔵著『なぜ、一流品なのか 読むおしゃれ・24章』(大和書房)「エルメスの仕事場の中味」の章の一節。

第二次世界大戦勃発が1939(昭和14)年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したとき。その直前というと1935~6年だろうか。

少々大雑把なデータで恐縮だが、1928年だと、1フランが日本円で約200円。九千フランというと、約180万円。
マレーネ・デートリッヒのような大女優が溜め息をついたほどだから、この数字もほぼ近いのではないか。

エルメスは、1837(天保8)年、創業者のティエリ・エルメスが高級馬具の製造工房をパリ・ランバール通りに開店。ナポレオン3世やロシア皇帝などを顧客に発展。176年の歴史がある。

2代目のエミール・シャルレが現在地のフォーブル・サントノーレに移転。付近にはエリーゼ宮、外国公館が並び、王侯貴族の来店がひっきりなしだった。

5代目ジャン・ルイ・デュマ・エルメスになって、世界23か国に出店。スカーフが14秒に1枚売れている。全製品の約70%が輸出にまわされるというのに、「ライセンス生産」は一切しない。全部本店づくり。

テュマ・エルメス氏は言う。エルメスの製品に使われる材料は、革にせよ絹にせよ、あるいは銀やべっ甲にせよ、昔から純粋な材料を使っている。しかも仕上げがしっかりしているから、もちがよく、一生の間使ってもらえるものだと思う。

つまり、それはそのひとの人柄ともなるべきものです。
(以上、草柳大蔵著『なぜ、一流品なのか-----』「大和書房」)

エルメスのスカーフは、日本の若い女性も、身に着けているのをよく見かける。
ただ、シックな姿にはあまりお目にかからない。

私も若いとき、エルメスのスカーフが欲しかった。
でも、エルメスの店をのぞくと、なにか気おくれする。見るのは好きだが、太刀打ちできないような気がして、やっと、なんとか買えるようになっても、手にしなかった。

ただ持つだけではつまらないので、買ったら身につけたいと思ったからである。

25年前、仕事の相棒が、アメリカへ行ったときのお土産にと、エルメスのスカーフをプレゼントしてくれた。

ブルー地を基調にサムライが馬に乗った姿がテーマで、なんとも素敵だと思った。
ところが、どうも、このズッシリした重みのシルクのスカーフが、どの服にも、いつの自分の顔にもあわないのである。

何度も家でためしてみるが、しっくりこない。というわけで、せっかくお土産にいただいたが、そのご本人は、私が身に着けたスカーフを一度も見ないうちに、亡くなってしまった。

25年たっても、そのスカーフで外出したことはない。

一枚の絹の布。どっしりした風格を備えたともいえる、その存在感。と、いつも気になって不思議だった。

あるとき、名文家のファッション・ジャーナリスト、光野 桃さんの文章に出会った。(『わたしのスタイルを探して』大和書房)

「エルメスのスカーフは日本の若い人の間で、人気が衰えないという。---------しかし、あのズッシリと手ごたえを感じるほどのヘビーシルクのスカーフは、若い娘には太刀打ちで
きないものではないかと思うのである。その絹の、なにものをも寄せ付けない風格の前には、未成熟ゆえに曖昧な顔は負けてしまう。--------」

「だから、エルメスを蝶のように顔の前で結んで、半ば反りかえるようにして歩いている若い人を見ると、おおっ、エルメス様のお通りだ、などと思ってしまうのである。

さらに、耳に痛い言葉がつづく。

「エルメスのスカーフをして、それに負けず、しっくりなじませるためには女としての年季がいる。いや、むしろ、人として生きた歳月が必要なのだ。

エルメスに限らず、ヨーロッパの一流品はすべてそういうものなのだと思う。身に着けるものの方が負けてしまっていたのでは、人も物も浮かばれない」

これで、私のエルメスのスカーフの、不思議がわかったのだが。

さて、そのことを、喜んでいいのか、嘆かわしいことなのか、複雑な気持ちであります。
                            (2013・3・19)

「駅弁彩見」始めます


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●直江津駅の「鱈めし」は、
JR東日本企画「駅弁味の陣2012」で
「駅弁大将軍」として第1位を受賞



上越新幹線開業30周年、長野新幹線開業15周年記念特別企画キャンペーン(2012年
10月6日~11月末)で、一般購買者約4000人の投票によるもの

対象エリアは、大宮、高崎、新潟、長野、東京の13駅で発売している23種の駅弁が参加。


鱈めし 1100円

2日かけてもどした棒ダラの甘露煮がほこほこと、なんともいえないおいしさ。
一日干した棒ダラは切って流水に45時間、血合いや汚れを完全に除く。

泳いでいたときの状態に戻してからの味付けは、下煮から7時間。そうして甘露煮が仕上がる。昆布の炊き込みご飯も抜群の味。

ほかに、外側はしっかり焼けて中は生の焼きたらの子。タラの親子漬け、自家製漬物など、こだわりの数々。

一度食べた人は必ずリピーターになる、直江津の名物駅弁。

●売店 直江津駅、「東京駅 駅弁 祭」、 ほくほく線「特急はくたか一部」車内販売、高崎駅構内
●ホテルハイマート TEL : 025-543-3151


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●創業112年 直江津(ホテルハイマート)の歴史

1886(明治19)年8月15日 北越鉄道 直江津~関山間 開通 直江津駅 初代駅舎

1899 (明治32)年8月1日 直江津駅新築移転              2代駅舎
         9月5日 北越鉄道 春日新田(仮)~直江津間 開通
                  直江津~沼垂間 全通

1901(明治34)年10月1日 旅館山崎屋支店として、営業開始。
北越鉄道株式会社(JR東日本の前身)
より、直江津駅構内立売営業承認、
初代、山崎多七。

1912(明治45・大正1)年 明治天皇崩御、大正天皇即位
1926(大正15・昭和1)年 大正天皇崩御、昭和天皇即位

1940(昭和15)年 10月1日 新駅舎完全開業               3代駅舎

1950(昭和25)年12月29日 有限会社山崎屋支店として組織変更

1973(昭和48)年12月22日 株式会社ホテルハイマート 設立   創業72年
1974(昭和49)年7月14日創業 

1994(平成6)年9月 「政府登録指定ホテル」として認可
1999(平成11)年10月1日4代山崎邦夫 社長就任

2000(平成12)年4月7日 新駅舎完全開業                 4代駅舎  
2001(平成13)年10月5日 構内営業承認100周年        創業100年          
2013(平成25)年                       創業112年

手紙

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手紙を書いていますか


若い人には想像もつかないでしょうが、電話が普及していなかったころ、連絡手段は手紙か人づてだけだった。一般家庭に電話が入っても、礼状や不幸のお悔みなど、また、用事がなくても近況報告に手紙を書いていた。

パソコンや携帯メールが便利で、今や、おおかたの用件はメールで済んでしまう。
でも、メールは、人の顔や息遣いもない極めて無機質なもので、なんとも物足りない。便利さと、本当に伝えたいこととは使い分けたい。

と思い、今だに礼状や大切なことは、手紙と決めている。

絵葉書などは、相手に合わせて選ぶ。手紙は、便箋や封筒を選び(なかなか楽しい)なるべく書きいい筆記具、万年筆か筆ペンなどで縦書きでしたためる。ボールペンは文字に表情がないので、使わない。

書くというのは、会話のときの身ぶりや口調で補えない分、考えなくてはならないので、頭の訓練にもなるのではないか。なによりも相手の立場になれる機会でもある。したがって、配慮も必要だ。相談ごとでもない限り、あまり延々と自分のことばかり書かないほうがよいと思う。

もっと突き詰めれば、賀状で、親類縁者は別として、公の付き合いの方に、子供の笑顔一杯の写真がのったものなども避けたほうがいいと思う。世の中には、子供がほしくてもかなわない人や亡くした人もいるのだから。

と考えてくると、ちょっとユーモアもあり、たのしい手紙もいいなあ、と思う。

作家の故山口瞳さんが、敬愛する高橋義孝先生からの手紙を、その著書『礼儀作法入門』の中の「手紙の書き方」(新潮文庫、平成14年版)で紹介している。
(高橋義孝:1913~1995 .日本のドイツ文学者、評論家、随筆家、内田百閒に師事。洒脱な趣味人としても知られた 註・塩入)

山口瞳さんは、
先生の三男の結婚の仲人を頼まれ、結婚のお祝いとは別に三男の方の兄貴分になるため、レインコートをつくることになった。そのレインコートが出来てきたようで、先生からハガキの礼状がきた。その文章がバカに調子がいい。おかしいなと思っていると、最後に、このハガキは「煙も見えず雲もなく」で歌ってくれと書いてある。という。

厚かましくも生意気に、暢(とおる、三男の名)の野郎はチロル(洋品店)まで。
出向いて洋式雨合羽(あまがっぱ)、一着頼んで来たようで。
貧乏おやじの私は、たゞたゞ恐れ入るばかり。
代わりと申しちゃなんですが、春になったら博多から、
献上の兵児帯(へこおび)一本を、お送りしようと思ひます。
それは相撲の夏帯で、締めた具合はよござんす。
右は「煙も見えず雲もなく」の節で歌わるべきもの也。(赤字)

(以上、著者原文まま。煙も・・・・の歌は明治・大正期の軍歌。註・塩入)

山口瞳さんは、
このハガキを読んだとき私は大いに笑い、大いに感激。1か月ばかりはハガキをとりだしては歌っていた。
第一に滑稽である。第二にお子様に対する愛情がにじみでている。第三に私に対する感謝
の気持ちがハガキ一杯に溢れんばかりに表現されている。

こんなに見事な、こんなに長く楽しめてしかも心に残る手紙を読んだことはない。
と記されている。

また、このアイディアを思いつくまでの先生の気持ちが手にとるようにわかって、そのことがありがたいのである。と、山口瞳さんは、感謝している。

『礼儀作法入門』の初版は平成10年なので、多めにさかのぼっても約24~5年前の話。
高橋義孝、自筆手紙ならではの含蓄がある。
 
さすが名随筆家。 「文は人なり」ですね。
                             (2013・3・13)

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