プロフィール

塩入志津子

Author:塩入志津子
編集者・駅弁研究家
JTBガイドブック、旅、情報版など各種延べ800冊の制作編集に携わる。
1987年から2011年まで24年6ヵ月にわたり『JTB時刻表』巻頭グラビアページ「駅弁細見」を連載。北海道から沖縄まで、190社の調製元現場を取材、撮影、執筆。
賞味した駅弁は約1700食。
著書に『旬の駅弁名鑑800』(講談社)がある。

東京ガス主催「全国高校生駅弁チャンピオン大会」(テレビ東京系列)では、3年連続審査員を務める。ほか週刊誌などの雑誌執筆、セミナー講師、講演、TVなど。

ブログの文章トップで掲載の写真は、塩入が撮影。

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自分とつきあってますか

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「ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。ただ大変なのを自分じゃなく、他人のせいにしてるだけじゃないか。大変な自分と出会うまでは、ほんとに自分と出会ったことにならないんじゃないか」
という、詩人の谷川俊太郎さんのエッセーを読んでいて、思わず椅子に座り直した。

と書かれているのは、読売新聞編集委員の芥川喜好さん。
2006年から読売新聞に月一回「時の余白に」のタイトルでエッセーを連載。練達の美術記者の書かれる、本質をついた内容に敬服して愛読している。
その2012年9月22日版「自画像、描けますか」の冒頭の部分。

谷川さんがそう考えたきっかけは、勝新太郎さんの言葉にあると、いいます。
「おれっていう人間とつきあうのは、おれだって大変だよ。でも、おれがつきあいやすい人間になっちゃったら、まずおれがつまらない」

谷川さんは、感心してしまいます。
自分とつきあうのが大変だなんて考えたことがなかった。
自分とも他人とも世間ともあまり衝突せずに生きてこられたと思っていた。それは自分自身をごまかしていたにすぎないのではないか――と。

私もこの言葉に、ガーンと一発だった。自分とつきあうのは、大変だ、って。
自分をじっと観察して、自分という実態をまっすぐ見つめることか。そういえば、私は、自分を見つめるよりも、他人の姿が先に目に飛び込んでいた。そのほうが、楽だから。
いや、この程度のことを勝さんは言っているのではないかもしれない。

長唄の杵屋勝東治(きねやかつとうじ)の次男に生まれ、俳優としても立派な仕事をし
続けた。生きることのなかに、自分を蓄え、自分への高い望みをもち、常に自分に要求し
ていたのかもしれない。多くの豪快な人間くささの逸話も残した。

勝新太郎さんの言葉の意味は深遠だ。
つきあいやすい人間とは、いい人、丸い人、くせのない人、肌触りのいい人などなど。
「おれがつきあいやすい人間になっちゃったら、まずおれがつまらない」は、名言だ。

白洲正子さんは、書いている。「人間は、面白いか、つまらないか、で私は判断する」

芥川さんは、
作家の中野考次(故人)さんが「老年とは自分と全面的に向き合う時節だ」と言っていたのを思い出す。そして、年をとっても忙しくしていたい、無為の時間を過ごしたくないという人が少なくありません。
つまり、あまり自分を直視したくない。できれば他事で時間を埋めていたい。空の自分に向き合うのがこわい。そういう無意識のあらわれかもしれません。という。

別の章で、谷川さんは宝物にしているレンブラントの銅版画自画像について、「自分をそのへんにころがっているじゃがいもを見るのと同じ目で見ていて、何の思い入れもないのだが、その表情は実に生き生きしている」と。
自分を客体化し、他人をみるような目で描いている。その視線の質に、言葉で書く人として谷川さんは「かなわないなあ」と思うのです。と、芥川さんは書いている。

肝心なのは、彼が生涯にわたって、自画像を描き続け年とともに変わる自分を直視し続けたこと。さえないおっさん風のレンブラントもいるが、偽装のない率直に自らの事態に向き合う表現の深さこそ、百点をこえる彼の自画像の魅力。

さらに芥川さんは続ける。
西欧の自画像は、ルネサンス以降500年にわたって描かれてきた。近代にいたって、自我の解体という動きもはらむ突出した表現の場と化します。
ようやくそのころ、西欧渡来の油彩の威力を知った日本の若い画家たちは、自我の表現としての自画像を描き始めるのです。
つまり、本邦における自画像はどうしても「青春の表現」の気配が濃厚だった。若い自画像は、昂然として、凛々しく、自己陶酔の熱に満ちて、それはそれで清新なものです。一方、年輪を重ねたもの、老いさらばえたもの、むしろ年齢を超越したものが発する生命の信号も、魅力的な造形の主題たり得ます。そういう大人の自画像がない文化、だったのかもしれません。

この芥川さんの「日本は、大人の自画像がない文化」という意見に私はハッとした。

芥川さんは、「日本には大人の自画像がない文化」だったのかもしれません。と謙虚な表現をされている。大人の自画像がない文化は、成熟した大人の文化がもてなかった、あるいは、いまだにもてていないこの国の文化の質のことではないか。若き自画像の魅力をたたえながらも、年輪を重ねたもの、むしろ、年齢を超越したものが発する生命の信号も魅力的な造形の主題たり得る、と、言いきっています。

ここで、私の長年の疑問がとけたような気がした。
日本は、なんで「若い」ということにこんなにこだわるのか。異常に年にこだわる。年齢は生まれて何日経過の説明ポイントにすぎない。人と人の交わりの楽しさは、個々の世界観の交流だと思う。国が異なっても、然り。したがって、自分の世界の話ができない人は軽蔑される。

近代以降、老いの美しさや、年輪を超越したものが発する生命の信号に触れるチャンスのなかった日本。残念ながらレンブラントのような大人の自画像を持たない日本の文化。

このエッセーのタイトルは、重ねて「自画像、描けますか」です。
勝新太郎さんは、きわめて個性的、かつ見事な自画像を描いて去られた。
さて、私は自画像が描けるのだろうか。

●この芥川喜好著『時の余白に』(2006~2011年連載分、みすず書房)が2012年5月、出版されました。おすすめします。


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自ら老いる

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2010年11月25日、読売新聞夕刊で、「老いる身体感 失う恐れ」「健診・検診のマイナス面」と題して、拓殖大学長、渡辺利夫氏が大変、示唆に富んだ話をされている。

50代の終わり頃、肺のCT検査を受け、「影がある」といわれ、細胞検査で「異常なし」とわかるまでの2週間、「がんではないか」の不安にさいなまれ、半病人状態だった。

その時、「年齢とともに、検査で異常が見つかる頻度が増えるのは当然ではないか。僕は健康のためだけに生きているのではない。---病気のことにかかずらわって、短い人生の貴重な時間を空費できない」

と思って、11年前、還暦になったのを機に検査を受けるのをやめた。やめてから1年くらいは不安はあったが、それ以後はストレスから解放された。といわれる。

体のどこかが痛かったり、違和感があると、神経質な人はすぐに病院に飛び込む。医師も
「精密検査しましょう」と言う。そうすると、何度も検査で確かめないと気が済まない
「確認恐怖症」の深みにはまっていく。

検査をやめて、健康な身体感を得たように思います。という。

健康な身体感とは、どういうことか。の記者の問いに、

年とともに、小さな活字が読めなくなる、ひざに痛みが出る、といった機能不全が表れます。それを身体の異常と考えるのではなく、「年を重ねるとは、そういうことなんだ」と受け止めて、生老病死のライフサイクルに身をゆだねる。年相応に老いていくということですね。

ところが現代人は、かつての人なら「自然の成り行き」と考えていた老いを、「異常」ととらえるようになってしまいました。つまり、いつまでも若いころのような身体状態を保つことが健康と考えられるようになった、という。

それこそ異常なこと。アンチエイジングがはやっていますが、不老不死を追い求めるようなもので、実現不可能なことです。

老いや死を遠ざけようとする心理そのものが、逆に病や死を自覚させる。遠ざけたいという想念が自分にからみ付いてきて、逃れられなくなります。と話されていた。

私も、このご意見に大賛成である。

17歳の時、盲腸で入院、長じて、耳の手術では40日入院、椎間板ヘルニアで苦しんだときは、医者のすすめた手術を無視、家でそっとすること半月で治癒。手首骨折の手術で一晩入院など。やむをえぬ故障以外は、基本的に病院愛好家ではないので、健診・検診もこの十五年ご無沙汰である。

使わない健康保険料や介護保険料は、どなたか、重い病でお困りの方に使っていただけると思っている。

昨年、右肩が痛くて上がらないので、やむなく近所の医院に行ったら、「四十肩ですよ」「えっ、わたし、四十じゃないんですが」と,トンチンカンな答え方をして、先生に「せっかくサバよんであげたのに」と笑われた。

先日、同業の編集者の友人と飲んだとき「今、どんな本作っているの」との問いに「健康関係、健康にいい黒酢とか、美容関係」という答えが返ってきた。

男性も女性もアンチエイジング、グルコサミン、コンドロイチンが大流行り。いかに、細くなるか、赤ちゃんのようなお肌になれる。えっ、それは無理なのでは?と、つい、つぶやいてしまう。情報過多と科学の進歩で、人間はなんでもできる、と思い込んでいはしまいか。もちろん、進歩は喜ばしい。受け取る人間の側の問題なのでは。

それが職業の人は別にして、健康や美容そのものが人生の目的になってしまうと、悲しいなあ、と思う。

人は、必ず年をとる。しわもできる。しみも避けがたい。お金のふんだんにある人は美容院できれいになればいい。整形に100万単位のお金をかければいい。

でも、なければ、工夫する。学校を出て、安月給の編集者のころ、キュウリや玉子で顔パックをしたり、やかんの湯気で顔に湿気を補充したりした。

身体や顔は、男も女も自分でつくるものでしょう。

最近、テレビで大竹しのぶさんが「エディット・ピアフ」を演じているのを見た。私が見てきた彼女の顔の中で、今の大竹しのぶさんの顔が一番いい。ピアフがそこにいた。ピアフという、一人の女がいた。人生を経験し、芸を磨き、修行して、大竹しのぶさんご自身でつくった顔です。グルコサミン、コンドロイチン、美容院ではつくれない顔が、そこには、ありました。
(2013・2・18)

少し余分に

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酒屋のおやじのわたしの父ちゃんは、62歳で、1945(昭和20)年3月10日の大空襲で死んだ。私とは、14歳まで人生を共にしてくれた。

東京市浅草区吉野町1-5-1番地
店は南千住行の市電が通る道を一本入った、角にあった。

店の奥に6畳の座敷があり、長火鉢と卓が置かれ、それが、父ちゃんの定位置。缶詰類などを販売する、今も健在の国分商店の当時の社長さんが来ると、長火鉢を挟んで、お酒を飲みながら談合していた。

酒屋のくせに、和菓子が好きで電車通りにある、光琳堂という和菓子屋へ、使いに行くのが学校から帰ってのわたしの日課だった。お大福、きみしぐれ、くず桜など、指名の菓子を6~7個。木の皮に包んで掛け紙をしてくれる。

ビニールや手提げの紙袋などの無い時代。風呂敷を持たされて、菓子屋のおかみさんが包んでくれたのを大切に両手で持ち帰る。ころぶと、菓子がつぶれる。何度か失敗して、泣きながら帰り、お金をもらって、もう一度買いに行った。
わたしが7歳くらいのことです。

そのころの下町は、まさに、向う三軒両隣。ご近所付き合いが親密だった。今夜のおかずのハスの煮物を余計につくったから、と言って丼に一杯、となりのおばさんが割烹着の前の部分を風呂敷代わりに、丼にかぶせてとどけてくれる。その場で、いただいた中身を移して、器のお返しに半紙を添えて。などは日常のこと。

父ちゃんは、散髪は、日本堤(当時の吉原へ通じる町)にある中国の人の店へ行っていた。技術がうまいのと、最後に耳掃除をとても気持ちよくやってくれるから、というのを記憶している。

そして、盆暮れには寸志を包んで行った。
父ちゃんは、「普段、身体をいじってくれる人には、ちゃんとお礼をしなければ」という。

家族がかかるお医者さん、歯医者さん、母ちゃんが行く髪結いさんなどに、その時節にはお礼をかかさなかった。それ以上深い考えは、子供なので、わからない。いまでもわかりません。でも、父ちゃんの気持ちのようなものは、わかる。

その金封をつくるとき、「人間はどうしても欲深で、ちょっと少な目にしたくなる。それではいけない。自分が考えた額より、少し余計にしなさい」そのほうが、相手も自分も気持ちがいい、という。

なぜか、今、わたしも、ささやかながら、そうしている。
                               (2013・2・18)

きもの

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日常着からは遠ざかってしまったが、きものは、日本人なら魅かれない人はいないでしょう。と、勝手に思っている。

浅草で酒屋のおかみだった、母ちゃんは、57歳で死ぬまで、きものだった。
絣や銘仙のきものの上に白い割烹着を着けて、朝から晩までくるくる働いていた。

そんな姿を見て育ったせいか、夏は金魚の柄の絽のきもの、冬は牡丹柄でチリメンの被布(ひふ)を着て、ごきげんだった幼児のころが残像としてある。

戦争が終わって(日清戦争ではありません)、20年もたったある日、仕事で電通通りを歩いていたら、たっぷり大きなガラス戸に、「こうげい」 と書かれた店があった。
なんとも雰囲気のいい店だった。

呉服屋さんだが、デパートのような無駄が全くない、選りすぐりのいい物が並んでいる。目をみはった。1点1点に、釘付けになった。 

後で知ったが、品物は、白洲正子さんが自ら日本全国の染めや織元に足を運び、自身の目で選んだものだった。

手始めに、鳥取の弓ヶ浜の絣と赤い織り帯をお願いした。ご縁で、鎌倉から通っている、スタッフの三船さんという女性と親しくなった。
彼女の目は確かで、 仕事で、電通通りを歩くときは、「こうげい」に立ち寄り、きものをみながら、5~6分、三船さんとの束の間のおしゃべりが楽しかった。

着物姿の美しい人が歩いていると、着こなしの様子を観察しながら、後をつけることもあった。

この店が白洲正子さんの店だとわかったのは、店に出入りして2~3年経ってからだった。店主と近しい、小林秀雄、川上徹太郎、青山二郎は書籍で知っていたが、白洲正子さんは、雑誌の「作家訪問」の記事で知るくらいだった。

公私ともに、インターネットをもたない時代で、仲良しの三船さんも一言も、そのことは話さなかった。
  
ある日、「白洲が本を差し上げたい、といっております」と三船さんから言われた。
奥の事務所に白洲さんがいて、著書の『栂尾高山寺 明恵上人』(講談社)をサインしてくださった。

1967(昭和42)年の冬だったと思う。

細面の、凛と、美しいお顔の持ち主は、あまり笑いもしないで、じっと私をみて、「いつもありがとうございます」と言われた。精神を鍛え、知を磨き、確かなよりどころを備えた素敵な女性だと思った。
和服を自分のかたちに着て、染色家古沢万千子さんの、蝶を格子にはめ込み、藍とグレイで染めあげた紬地の羽織を着こなしていたのが印象的だった。

『栂尾高山寺 明恵上人』 出版の3年後、1970(昭和45)年に白洲さんは 「こうげい」 を人に譲られた。

表向きは、今のように世界中があわただしくはなかった、遠いむかし、銀座、旧電通通りの風景のひとこま、です。                     (2013・2・18)

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2013年2月10日、亡き団十郎さんにNHK「100年インタビュー」の再放送でお目にかかった。
アナウンサーの、大病で死の恐怖についての質問に、5歳で病気をしたこと、死の恐怖を経験したこと、死はそれほど怖くはない。など。父親の先代が早世したため、収入がそれまでの十分の一くらいになるので、覚悟をきめて生きなければ、と思ったことなど、人間、堀越夏雄(本名)が語る。

伝統芸について、同じことの繰り返しで悩まないかの質問に、
踏み出す努力とつなげる努力は、そんなに変わらない。同じことを繰り返すというのは、結構創造しているんです。

江戸から明治維新、第二次世界大戦を経験して、今、日本人が失っているのは、誇りです。江戸文化は、まさに、NPO。向こう三軒両隣で助け合っている。タダで相手を助け合うことを一杯やっている。
これからは、そうならざるを得ないのではないか。

交通の速度化、ITなどが進んでいるが、今までの合理主義がなくなるのでは。
歌舞伎の役目も助け合いの中の提案ができるのではないか。

今はあまりにも流行に左右されすぎています。
日本文化は、戦後、右肩下がり。せっかくあった、いい知恵まで無くなっている。桶、樽、傘とかが無くなっていますね。歌舞伎、文楽、狂言などが盛んになることによって、それぞれの日本文化がマッチして、いいものが残っていく。

人間には、立ち位置があるんです。となりの芝生は青くではなく、己の欲をもつことです。これからは、自分の持っているものを、そこで、醸造すればよい。

歌舞伎公演も年間50もやっている。多すぎます。衰退を助長するのではなく、身の程を知るのが恒久的な安定をもたらす。恐竜も大きくなりすぎて消滅しました。生き残るために大きくしようとすると消滅します。自分の“ほど”の中で楽しむ。歌舞伎も、ただ、大きくなる必要はない。世界に、こういうものがあると、アピールしていけばいい。
と、はっきり静かに話す。

私が、ただただ魅かれたのは、そう語るときの団十郎さんの目 だった。
本当に、真剣に、考え、憂いている目だった。長い間、本物を追及している目は、時には、人のこころを射抜くような厳しさがあり、すがすがしく思えた。

これは、団十郎さんの、日本への遺言だと思い、こころのなかで、涙を感じました。

長い間、テレビに出る日本の政治家のお顔に食傷しています。
久しぶりに、立派な、本物の男性のお顔というものを拝見した、1時間30分でした。
                             (2013・2・12)

ソファにすわらない

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1960年代から,評論家、ノンフィクション作家、ジャーナリストとして活躍、2002年に亡くなられた草柳大蔵(くさやなぎ だいぞう)さんは、テレビでもソフトな語り口で多くのファンに恵まれた。
名評論家大宅壮一氏の「大宅壮一マスコミ塾」に学び、1950年代には大宅氏の助手を務め、『週刊新潮』『女性自身』の創刊に参画。1966年、『文藝春秋』に連載した「現代王国論」で文藝春秋読者賞を受賞。その他、多くの著書を残された多彩なジャーナリストだった。
その草柳さんが、1948(昭和23)年、24歳のとき、雑誌社の末端編集者として、雨の中を原稿集めに駆けずり回り、ある国務大臣邸にたどり着き、応接間に通されたときの一文は、10年余の歳月が流れても、忘れられない。

朝から雨の中を歩き、疲れていたので、ソファに深く腰掛け、なけなしの煙草に火をつけた。そのとき、国務大臣の奥様が入っていらして「はい、ご苦労様」と原稿を渡してくれ、帰ろうとした草柳さんに「お紅茶でも飲んでいらっしゃい」と声をかけてくれた。

ウィスキー入りの、当時では珍しい紅茶の味に、心も温まる思いをしたが
「あなたのお父様は何をしていらっしゃったの」という夫人の質問に、すこし身体を起こした。
「石屋です。灯籠やお稲荷さんの狐や墓を刻んでおりました」「そう」と夫人はうなずいて、「それではこれから申しあげることを、ひとつの参考として聞いてくださいね」と、静かな口調になった。

「あのね、他所(よそ)のお家を訪問して応接間に通されたときは、そこの主人が姿を見せるまでは椅子に腰をおろさず、立ったまま待つものですよ。そのために、壁に絵がかかっていたり、花瓶に花が活けられているのです」

私は、ソファにどっかり身を沈めて、穴のあいた靴底から浸み込んだ雨水に濡れた靴下を両手であたためていた私自身の姿に、かっと恥ずかしさが込みあげました。耳まで赤く熱くなったのを今でも覚えています。
「ありがとうございました」
かすれたような声で礼を言い、私は原稿を内懐に入れて、雨の道を駅まで急ぎました。

電車に乗ってから、どういうわけか、「世の中っていいな、素晴らしいものだな」という言葉を繰り返していました。煌々(きらきら)しき思い、とでもいうのでしょうか。
と、自著に書かれている。(『礼儀覚え書き』グラフ社)

さらに続きます。

そして、二十数年後。
当時の三菱銀行会長の田実(たじつ)渉(わたる)氏を取材で訪問。秘書の方が「どうぞお掛け下さい」というのにお礼をいい、立ったまま、部屋の壁にかけられたルオーの絵を眺めていた。しばらくして、顔一杯に笑みを浮かべた田実さんが入ってこられた。

それから三年。日本興業銀行会長の中山素平氏のインタビューに訪れる。終わって筆記具をしまい、立ち上がろうとした草柳さんに中山さんが少し語調を変えて言った。

「君のこと、じつは昨日、田実さんに電話で聞きました。明日、草柳君という人と会うんだが、あなたは彼と会ったそうで、それで伺うんだけれど、どんな男です、彼は?
そうしたらね、田実さんが電話の向こうで、“ああ、あの男は俺が部屋に入るまで座らないで、立って待っているような男だよ”というんです。それだけよ。それで僕は、きょう、君と安心して会うことにしたんだ」

私は、そのとき、一本の道が瞼にうかんだのです。 と、草柳さん。

自分の道を、自分ひとりで歩いていると思ってきたが、それがなんと恥ずかしく浅墓な考えだったか。自分が物書きとして読者に読んでいただけるようなものを書いてこられたのは、先輩たちが道をつけ、ときどき道端に立って、ちゃんと歩いているか、踏み迷うようなことはないか、灯で照らしてくださったのではないか。

応接間のソファにすわらない。

ただそれだけの教えが、三十年近くも私の周囲に生き続けてきたのです。
雨の日の、白い花束のように見えた美しい奥さんの言葉は、田実さんから中山さんまで一貫していた。いや、そればかりでなく、人物評価のモノサシにさえなっていたのです。
と、草柳さんは、書いています。
その経験を「煌々(きらきら)しき思い」と受け止めた24歳の若き草柳さんの感性も素敵です。

この文章に出会ってから、私も、おそまきながら、公私ともに訪問先の方が見えるまで、応接間のソファにすわらなくなりました。
                             (2013・2・12)

サンマリノ


サンマリノ共和国国旗
サンマリノ共和国国旗



 イタリア半島の中の外国に、サンマリノ共和国がある。世界で一番古い共和国として、世界中の国から尊敬されているという。
面積約61k㎡、人口28503人、通貨はユーロ、イタリア語圏。面積は世田谷区とほぼ同じ。時速50kmの車で一周20分の小さな共和国は、世界遺産に指定されている。

かつて、ナポレオンに、
「あなたの国が気に入りました。領土を差し上げましょう。ただし、フランスに税金を払う必要はありません。」
といわれたが、その申し出でを丁重に断ったという。
「狭くても、自由でいたい」というのがその理由である。

1243年から二人の執政で国を運営。頭が二人というのは、やりにくいのでは、という質問に、そんなことはありません。お互いの弱点が補えて、適切な判断ができる。と答えている。

1940年代、第二次世界大戦で、ドイツと連合国軍が戦った際、建物の屋根に、白い十字を描いて、中立国の立場を貫き、軍隊を持たない国が、逃れてくるイタリア難民10万人の命を救ったことでも世界の尊敬を集めた。食糧に困ったときも、イタリア難民に自国民と同じ量の小麦を配ったという。

年間、約200万人の観光客、移民からの送金、イタリアの援助、日本を含め世界の名所をデザインした、国際的に有名な郵便切手の発行などによる経済で国を支えている。

1996年に、日本と外交関係が成立、2002年に在日サンマリノ大使館も開設された。

首都サンマリノは、城壁に囲まれた山頂にある。中世の名残を漂わせる、眺望のよい町で、大聖堂やゴシック様式のサン・フランチェスコ教会などがある。

国立サンマリノ大学は、工業デザイン学科が人気でイタリアはもとより、ヨーロッパ中から留学生を迎えているという。

自国のほどをわきまえて、過分の欲をもたず、自由を大切にし、自由を守る。困難に直面している人がいれば、惜しまず手をさしのべる。
世界で一番古い、小さな共和国は、本当の自由をもっている国ではないか。

ちょっと、下手なガイドブックのようになりましたが、世界にはこのような素晴らしい人びとの住む国もあるのですね。
 一度、ぜひ行ってみたいと思っています。            (2013・2・12)
       

●写真展のおしらせ

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1997年から、私の通う写真教室の、展覧会です。年2回開催しております。
いまだに、フィルム撮影を主体にした教室で、デジタルカメラ併用の人もおります。

受講生は、男性10名、女性3名の13名と、断然男性多数のグループで、紅3点のうちの
ひとりです。結構、真面目に通っております。

もう16年になりますので、それぞれ、見応えのある、仲間たちの作品が26点、並びます。
ぜひ、お立ち寄りください。

ご来場くださったら、お名前をご記帳いただけると幸いです。

読売・日本テレビ文化センター 新実践写真教室 廊下展
  講師 土方幸男先生
● 開催期間  2013年2月16日(土)~3月2日(土)
● 場所 荻窪駅ビル「ルミネ」6F TEL 03-3392-8891
● 時間 10:00~20:00
 ( 申し訳ありませんが、受講生は詰めておりません)

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